2009-07

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物語のなかへ13

ヒュー・ウォルポール著 長尾輝彦訳『ジェレミー少年と 愛犬ハムレット』(れんが書房新社)
―「図書新聞」掲載

 本書はイギリスの作家、ヒュー・ウォルポールが一九一一年に発表した児童向け小説『ジェレミー』三部作の第二作目にあたる。作者はわが国では、代表作の『へリーズ年代記』や『銀の仮面』などで熱烈なファンを持つが、本書は本邦初訳である。
 訳者はあとがきで、「イギリスの片田舎の骨董屋で思いがけなく発見した骨董品のような趣がある」と記しているが、主人公のジェレミー少年へ寄せる作者の温かいまなざしが作品をいぶし銀のような味わいに富んだものにしている。読後、私もすっかりジェレミー少年のファンになってしまったのだった。
 ときは一八九四年。十歳のジェレミーが寄宿学校に入学して二年目の冬休みに、ポルチェスターに帰省したところから物語が始まる。舞台は実在の町ではないが、おそらく作者のヒュー・ウォルポールが寄宿学校生活を送ったイギリス北東部の町、ダーラムではないかと訳者の長尾氏は推測している。訳者あとがきに添えられたダーラムの大聖堂と城、その下を滔々と流れるウィア川の写真に誘われるように物語の世界に分け入っていった。
 少年と同世代の読者なら、たちまちジェレミーと一緒になってポルチェスターの市場をうろつき、大聖堂の夜中の肝試しにドキドキし、愛犬ハムレットのひょうきんぶりに笑い、寄宿学校でのクリケットやラグビーの様子に胸を高鳴らせるだろう。
 そして大人はこの物語の中で、もっとも繊細に世界に向き合っていた頃の自分に出会うだろう。世界が自分に重くのしかかってくるようでとても生きにくかったこと。大人との軋轢の中で異常なまでに神経を尖らせていたことを、まざまざと思い返すにちがいない。
 同時に物語の背後にイギリスの片田舎にも及んできたキリスト教信仰の揺らぎや階級社会を少しずつ侵食して行く時代の荒波をひしひしと感じる。パリ帰りの絵書きのおじや植民地を渡り歩いた実業家のおじが牧師の父との対比で描かれ、そんな大人を見つめながら少年は自立を促されていく。
 ジェレミーは牧師である父の潔癖なまでの正義感から、泥棒の濡れ衣を着せられて深く傷つく。自分の善意がこともあろうに正義の権化ともいうべき父によって真っ向から否定されてしまう……冒頭に置かれたこのエピソードが物語の通奏低音となって少年の造型を陰影に富んだものにしている。
 少年がもっとも敬愛するのは絵描きのおじであり、深く友情を感じるのは避暑地カーリヨンで出会ったならず者一家(低階層)の少年である。大の本好きで古道具屋で『ロビンソン・クルーソー』をみつけて狂喜するいっぽうで、体は小さいのにラグビーの選手に選ばれるスポーツマンでもある。実業家のおじさんが家族の前で牧師である父の欺瞞性を痛罵すると、反論もできない父にそっと救いの手を差し伸べる。強い自己主張をするわけでもないのに、しっかりとその存在感を周囲に植えつけていく。
 作者は一八八四年にニュージーランドで牧師の子として生まれ、五歳のときにイギリスに移り住んだ。一九〇六年にケンブリッジ大を卒業して聖職についたが、一九〇九年に作家に転じ、第一次世界大戦を挟んで三十年間にわたって作品を発表した。物語にはこうした作者のプロフィールが色濃く投影されていると思われる。
 ジェレミーはパリから戻った絵描きのおじさんに画室で父とのいざこざを打ち明ける。するととおじさんは「死ぬまでには百万回も誤解されるだろう。だからほんとうにすきな仕事と、信頼できる友と、それに丈夫な胃袋があれば、それだけでもう感謝しなくてはいけないのだ」。そして、「この画室にはいつでも入ってきていいからね」と言ってくれる。
 「ジェレミーの人生はあの半時間の出来事から始まったと言ってもよいほどです。ジェレミーは、鏡の国のアリスのように、川をこえ、わがものとなるべき領土へと足をふみいれたのでした」
 十歳の私にも新しい領土をもたらしてくれたおばたちがいた。さまざまな本があった。新しい領土への入り口をこじあけてくれる存在を持っていたことは無上の幸せであったと今つくづく思う。
 本書はきっと読者のそんな一冊になるにちがいない。
 「イギリス文学には、『こどもは大人の父親である』という有名な詩句を残したウィリアム・ワーズワースに始まり、チャールズ・ディケンズやジョージ・エリオットらによって成熟した伝統――『子どもの心』を好んで題材にするという伝統がある。ウォルポールが書いた『ジェレミー』三部作は、その伝統を受け継いだものであり、間違いなく後世に残る文学遺産と言える。翻訳を手がけた理由もそこにある」(訳者あとがき)
 たしかにジェレミーは私たちの父親であるとも言える。これが読後の率直な感想である。

病理という世界へ 6

村上智彦 著
『村上スキーム 地域医療再生の方程式』評(エイチエス)
―「通販生活」掲載

 連日の医療崩壊のニュースに暗い気持ちを抱いている人にぜひ読んでもらいたい1冊である。こんなに熱く地域医療に取り組む医師が存在しているのだと思うと、「できることはまだまだある」と希望が湧いてくる。
 その人の名は村上智彦さん。財政破綻した夕張市に乗り込んで、つぶれかけていた夕張市立総合病院を公設民営の診療所として再出発させた人である。村上医師の生い立ち、地域医療への関心を深めていく経緯、夕張での取り組み、日本の医療の問題点や未来について、インタビュー形式で本音がじっくり語られている。
 副題の「地域医療再生の方程式」が示すように、村上医師は「夕張に町づくりのために来たんです」と言う。どこの病院でもCTやMRIが受けられる必要はない。高度先端医療は都市部に集中させ、高齢化率の高い田舎の病院は予防とケアに取り組むべきだという主張は、明快だ。
 問題は医療の側だけではない。医者も悪いが患者も悪いと村上医師は言う。「コンビニ診療」や救急車をタクシー代わりに使うなどもっての他だと。
 「高齢化社会に合わせて、医療側も予防医療にもっとシフトチェンジした方がいいと思います」
 「町づくりなんです、医療って」
 そうだ。私たちが毎日暮らしているこの町のことなのだと思い知らされる。

ジェンダーをめぐって 3

仙波千秋 著
『良妻賢母の世界 近代日本女性史』評(慶友社)
―「図書新聞」掲載

 「良妻賢母」といういわば死語めいた言葉の背後に広がる世界に分け入り、良妻賢母思想は女性を抑圧するイデオロギーであるというだけでは括れないという視点に立って近代日本女性史を読み解いていく意欲的な労作である。
 著者は本書において「『良妻賢母』たれと求められる中で生きる場を築き自己実現を果たそうとした女の多様な営みを描き出すことを目的とする。既成の『良妻賢母』のイメージにとらわれずに女のさまざまな営みを描き出し、明治という時代を生きた女の姿を明らかにしていきたいと考える」と述べる。
そのために取られた方法が実にユニークである。明治期に次々と発刊された「女学」の雑誌を資料とし、しかも、編集者や執筆者の記事を検討するのでなく、投稿や投書を通じて読者である女性たちの思いを読み取ろうと試みていく。
 今日の女性誌の淵源をたどれば、この明治期の「女学」の雑誌群に行き着くだろう。女性のライフスタイルの変化に応じて、女性雑誌は変遷を遂げてきたが、多くの女性たちが雑誌を通じてさまざまな生活上の情報を得、それをヒントに自分の生き方を考えてきたという相互関係はいまでもまったく廃れてはいないように思われる。
 ましてや明治初期のように圧倒的に情報量の少ない時代にあって、「女学」の雑誌が女性たちに及ぼした影響は計り知れないものがあったにちがいない。私たちはこれまで「性差別の抑圧とそこからの解放」という視点で女性史をたどることに終始してきたように思われる。もちろん欠かすことのできない重要な視点であることには違いないが、「新しい女たち」がいるいっぽうで、ごく普通に暮していた圧倒的多数の女性たちは自分たちの「女性性」をいったいどのように考えていたのか。著者は女学の雑誌を読み解くことを通じて、時代の波に翻弄され、男=国家の論理に巻き込まれる日々の中で、女性たちがただ唯々諾々とその生を男に捧げていたのではなかったことを明らかにしていく。そこには二十一世紀の現代を生きる私たちのジェンダーの無意識層をも炙り出す重要な手がかりが潜んでいることにも改めて気づかされる。
 第一章では、「女学」の雑誌の勃興期とその変遷に光をあて、「当初男が女のあり方を議論することを目的としていた」女学の雑誌が、「女子教育の拡大により雑誌の購読者が増加する中で、女が自らの生きる途を模索する場となっ」ていく様子が丹念にたどられる。
第二章では『女学世界』を媒介に、女学生の登場、女学校の寄宿舎、裁縫女学校や職業学校を取り上げる。若い女性にとって「「一芸」を以て生活の糧を得て家庭を担うことは、「良妻賢母」像にとって欠くべからざるものであったという指摘は新鮮である。
 第三章のテーマは「家庭」である。明治中期以降、「家庭の担い手」としての女性の果たす役割の重要性がこぞって雑誌に取り上げられるようになり、そうした情報を手がかりに自分たちの生き方を模索する女性たちの姿が、雑誌への投稿・投書を通じて明らかにされていく。「家族」「家庭」「一家団欒」といった言葉はこの時期、誌上に登場して認知されていく様子が明らかにされている。
最終章では雑誌への投稿や投書を通じて女が自ら筆を執り投稿・投書することに込めた志を丁寧に読み取っていく。
 私たちの祖母や母の時代において、抑圧と疎外の只中で自ら築くべき「家庭」は彼女たちの自己実現のかけがえのない場所であった。彼女たちは文字通りそこを自らのホームとして充実させるために料理や裁縫の技を学び、雑誌への投稿や投書を通じてお互いにエールを交換し合っていたのである。
 それは良妻賢母という規範への女性の側からの反撃であったかもしれない。人間の生の基本は「生活」であり「生活」の場所を切り盛りすることは自己実現と不可欠であるという熱いメッセージがそこに込められているだろう。そしてそれは、ジェンダーを超えて生活者として自立する人間にとっての基本であり、いまもあり続けているはずだと本書は私たちに語りかけてくるようだ。明治期の女性たちのこうした模索の積み重なりの上に私たちの今日が存在するのだと。
 「抑圧・疎外された存在ではなく、時代の子として自らの足で歩もうとした女の姿を、明治を生きた女の言葉を以て再現していくことを本書の使命と考えている」という著者の思いは十二分に果たされていると思われる。

家族をめぐって 5

木村まき 著
『空にまんまるの月』・評(西田書店)
―「図書新聞」掲載

 この詩集の著者、木村まきさんはどんな人なんだろう。読み進めるにつれて、だんだんその思いが強くなっていきました。作品は作品として味わいつつ、そんな思いを抑えきれなくなったのはなぜでしょうか。
 愛する人との別れをとことんまで味わいつくすことで、別れのつらさを生きつくし、生き残った悲しさ、淋しさを生のエネルギーにして命をつむいでいこうとする思いの、あまりの深さに打たれたからです。どの詩もとても静かで穏やかであればあるほどに。

   それから先は
   こころで送っていった
   「いいよ」と言ったひとを
   こころで送っていった

   こころに
   お別れはない

 巻頭の『それから先は』です。「こころ」でなら、どこまででも、たとえ生死の境を越えてでも送って行けると詩人は語ります。偶然この世に生まれ落ちて必ず死んでいく。私たちのこの世の時間は不思議です。なんのためにと問うのは詮無いことでしょう。生まれたからには必ず出会いがあり別れがあります。出会いと別れのひとつひとつが、人生を刻んでいきます。そして、やがてどんな出会いも生の必然のように感じられるようになったとき、それを晩年と呼ぶのでしょうか。
 晩年は別れが目白押しです。淋しさが豊饒です。だから、この淋しさをとことん味わいつくすしかないと詩人は語っているかのようです。
 『よばれたら』という詩があります。

   よばれたら
   「はい」ってこたえよう

   ちいさくけれどきっぱりと

 気持ちのいい決意です。しかし、続きを読むとただならないものを感じます。

   いっしょうのうちでいちばんいい
   「はい」をする

   はなびらのまいちるまひる

   わたしは
   ちいさな「はい」をれんしゅうした

 そうか、この詩のテーマは「別れの予感」なんだな。別れのその日のための一度きりの「はい」なんだな。そして次の頁をめくると『挨拶』。そこには(たぶん焼き場であらわになった)お骨のことが描かれていました。
 切なくなりました。しかし、詩人は悲しんでばかりいるわけでもないようです。『食卓』では、ひとりの家でごはんを炊いています。

   いない人と囲む食卓

   心がいっぱいやってきてほんわかどころではない

 そして最後の一行は「いない人のいるわが家はそうぞうしい」。好きな詩です。生きるって、生き残るってそういうことかもしれません。
 「世界」だった「あなた」は、東京・中野の病院で亡くなられたらしい。その最後のひとときは『あなたに』『ありがとう』『声』『0号室は平安です』『愛撫』などの美しい詩篇となって、滴りおちました。なかでも『0号室は平安です』は、「あなた」と「わたし」の二人っきりの時空を歌い上げて見事です。

   あなたはいっそううつくしく
   わたしはいっそうしあわせで
   ああ烏兎怱怱
   世界の愛をあつめてもなお

 この詩の最後に小さく「東京・中野のK病院では霊安室に0と表札がかけてある」と註が添えられていました。
 小沢信男氏の跋文で、木村まきさんは冤罪事件で知られる横浜事件の代表告訴人・木村亨氏の夫人で九十八年に木村氏没後その遺志を受け継ぎ、第三次再審請求人として活動しておられると知りました。
 木村まきさんはあとがきでこんなふうに語っています。
 「詩はどこからくるのでしょう。夫、木村亨が一九九八年七月一四日に死去し、私のからだは詩を嘔吐しました。詩として吐き出さなければ、自家中毒を起こし死んでしまったに違いありません」
 そうか。これらの詩はそんなふうにしてこの世に現れたものだったのか。そして、いまなお「あなた」と向き合って生き続けられるのも詩の力なのだと知りました。

物語のなかへ 12

宮本春樹著
『はまゆう年代記 海と山の約束』・評(創風社出版)
―「図書新聞」掲載

 宇和海に面した芋背という架空の村が物語の舞台である。宇和海でイワシ漁を営み、水の少ない急峻な土地に石垣を組んで段畑でわずかな農作物をつくって生計を支えてきた人々の四百年にわたる歳月が、村君(網元)一族を中心につづられていく。
 人間がその土地に根づいて生活していくことの意味について深く問いかける一書であり、どのような環境本よりも的確に今日の環境問題の本質に迫っている。
 著者は宇和海の歴史を調査報告した『段畑とイワシからのことづて』(平成一八年刊)で愛媛県出版文化賞を受賞した。いま、改めて架空の物語として本書をつづった理由について、前著を上梓するにあたり「多くの伝説や民話や聞き語りを割愛せざるを得なかった。それらの声、自然の声を物語化してみたのが本書である」と記されている。
 本書末尾の「出典と登場人物」によれば、芋背村のモデルは愛媛県宇和島市遊子水荷浦であり、「愛媛県南予地方の伝説、歴史、実話、実在の人物を素材としている」とある。『はまゆう年代記』にみなぎるリアリティは、民話や伝説の中に息づく「人々の声」や「自然の声」に裏打ちされているとともに、長い歳月を費やして村々を歩き回り調査を重ねてきた著者の意思と熱情から立ちのぼってくるのだと納得される。
 この一帯のイワシ漁の歴史は、玉葉和歌集(一三一三)に収められた古歌にも歌われるほど古いもので、古来よりイワシの好漁場であったらしい。十七世紀、江戸時代の初め、旅網という瀬戸内海の渡り漁師の一団に助けられた親を知らない少年と少女が、花浜というはまゆうの咲く美しい入り江に村をつくるところから物語は始まる。この一団のためにイワシ漁の拠点をつくるという使命を託された二人は、助けられた恩義に報い、与えられた使命に応えようとして懸命に海と山に向き合う。そこには乱獲や乱伐など私利私欲の入り込む余地はどこにもない。山や森の豊かさが海の豊穣につながることが、漁や農の営みを通じて子や孫へと伝えられていく。一つ一つの営為に意味があり、対岸の山の民との連帯が欠かせない。それらをしっかりと守っていかなければ、生活そのものが破綻するということを人々は骨身にしみて知っていた。
 イワシ漁は海流や海中のさまざまな条件に左右されて、不漁期と豊漁期の大きなサイクルをくり返していく。それはかつては自然の中で引き起こされる人智の及ばない出来事であったが、明治以降に海辺の森を切り開いて段畑をつくることがすすみ、山と海の分断が本格化した頃から海の生態系が崩れはじめる。
 戦争を経て、不漁と豊漁のサイクルはさらに人為的な要因に大きく左右されるようになる。 
 そして、二十一世紀の現在、芋背村は海洋汚染によって魚や真珠の養殖が危機にさらされている。高齢化もすすんでいる。芋背村は、海や山とともに再生を果たすことができるだろうか。破壊された海や山の回復には、年代記に流れた時間と同じくらい長い時間がかかる。著者は村に残って漁業の再生にかける若者たちの姿を描いて筆をおいている。それは著者の祈りが凝縮した姿であるだろう。芋背村の未来は、経済効率最優先で突き進んできた私たちの社会の未来にそのまま重なっていくものである。
 とくに第一章と第二章に描かれた十七世紀、十八世紀の芋背村の物語は、自然と折り合って生きる暮しと、人々が蓄えた知恵を次世代にバトンタッチしていく有様を見事に伝えている。海と山の物々交換や嫁取りの風習、随所に織り込まれた祭りの歌垣や漁の綱引き歌は、物語の時空に濃やかな奥行を与えている。
 自分の先祖はどこからやってきたのか。どうしてその土地に住み着くようになったのか。偶然に漂着した土地がどのようにしてかけがえのない場所となり、代々住み継がれていったのか……さまざまな要因の奥底には、きっと土地そのものが人のこころに与える力があったはずだ。そんな土地の声に耳を澄まし、丹念に調査を続ける著者の思いは、温暖化や海洋汚染による環境破壊を声高に論じるよりもいっそう痛切に、海や山のかけがえのなさを私たちに伝えてくれる。






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プロフィール

Author:梶葉子
読書のよろこびはなにものにもかえがたいものです。
私を実に実に遠くまで連れ去って
みえない世界を垣間見させ
そこに吹く風や漂う香りを感じさせてくれる
書物に感謝しつつ
ささやかな感想をしたためていきます。

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