病理という世界へ
小堀昌子著・中村清吾監修『乳がんを抱きしめて―39歳で乳がん患者だった私の治療記』(プロモーションセンター出版)
―「図書新聞」掲載
乳がんは日本人女性のがんの死亡率のトップを占める。初期段階で発見できれば再発はほぼゼロに押さえ込めるため、集団検診などではマンモグラフィーを取り入れるところも多くなっている。また、本人が触って発見できる唯一のがんということで、「自己チェックを定期的に行うように」という啓発がさかんに行われている。
ここまでは、女性なら大方は知識として承知していることである。しかし、実際にわが身に乳がんの疑いがふりかかってきたらどうだろう。多くの女性はどうして私が、と頭が真っ白になり、オタオタしてしまうだろう。
しかし、本書の著者はちがった。何げなく自分で触診してしこりを発見したとたんに「乳がんではないか」と思い、すぐさま病院に行く。初診の医師に不信をいだくや、周囲の信頼できる人に相談して、ただちに病院を変え、その結果、乳がん治療の名医にめぐり合い、「中村先生は、私にとって信頼できる医師であり、尊敬できる人である」「患者に病院に行くことを楽しく思わせてくれる中村先生は、私にとって、世界で一番の主治医である」「私は乳がん治療に関して、中村先生のおっしゃることは《信じて悔いなし》と思っているので、絶対的に信じ、指示に従っていくつもりである」と言い切るまでの信頼感を抱くにいたる。
こうした信頼関係は、ひとえに著者の前向きな生き方から生まれている。
「『乳がん』だった時期も私の人生の一部で、『乳がん』になったことはマイナスなことかもしれませんが、意外に多くのプラスももらったということです。すでに『乳がん』が私の人生の一部になってしまったのであれば、『乳がん』にかかった事実も含めて、前向きによく頑張った自分を抱きしめてあげたいと思っています」(あとがき)
こう言い切れる著者は素晴らしいと思う。
著者は当時三十九歳。広告制作会社の専務をつとめるバリバリのキャリアウーマンである。著者が選んだ病院は聖路加病院。そこで本書の監修者でもある乳がんの名医、中村清吾医師と出会う。
この初対面のときの感想がふるっている。十一時の予約で診療をしてもらえたのは六時すぎ。このとき、著者に中村医師に関する知識は、乳がん治療の名医という以外、ほとんどなかったそうだ。
「診察室の扉を開けて中に入る。中村先生は、やはり、できた人だった。中村先生のほうから『こんにちは』とあいさつをしてくださった。当たり前のことだけど、結構できない人が多いんだよね〜。」診療終了後、「『ありがとうございました』と言うと、『今日はお待たせしてしまって、すみませんでした』と先生から言われた。正直言って驚いた。耳を疑ったほどだ。そんなことを『先生』と呼ばれる人が言うなんて、露ほども思っていなかったからだ。先生こそ、長い時間お疲れだと思う。」
この感想は、著者が乳がん治療に積極的に立ち向かう大きな原動力となっていく。
両親には告げず、親代わりとも言える会社の社長に相談。しかし「犯罪者じゃないんだからこそこそしたくない」と、ともに仕事をしている会社のみんなには状況をはっきり知らせる。妹と親友に打ち明けたあとは、ひたすら中村医師を信じて治療に邁進する。
明確な診断がつくまでの長い検査をへて、ようやく治療方針が決定する。著者が治療を受けた二〇〇五年当時は、手術前に抗がん剤の投薬および放射線治療をしてがんを小さくしてから手術するという治療方法は日本では臨床試験段階の先進治療だったが、著者は「よりメリットがありそうな治療を受けられる資格があるなら、せっかくだからやってみよー」とその臨床試験に参加する。
そして九ヶ月にわたる抗がん剤治療と放射線治療、手術までの様子が、カラッと爽やかな筆致で活写されていく。闘病記を面白いといっては失礼だが、読者は著者といっしょに中村医師に向かい合い、RI&CTを受け、抗がん剤を打たれ、ストレッチャーに乗ってドキドキしながら手術台に運ばれていく。生き生きとディテールに富んだ文体は、まさに乳がんに率直に向かい合う著者そのものである。
中村医師は「賢い患者とは、自分をよく知っている人」とおっしゃっているそうだ。また、ポジティブシンキングが治療に間接的な効果があるとも。しかし、それは、なにもがん患者に特別なことでなく、「日常の生活の中で、どんなシチュエーションであっても必要なことです」と著者は記す。そして、「乳がんと告知されたとしても、いますぐどうにかなってしまうわけでもないですし、治療方法も飛躍的に進歩してきていますので、前向きに治療していけば、怖さは克服できると思います。そのためにはやはり『知る』ことです。その『知る』きっかけとしてこの本が役立てば嬉しいことです」
巻末には、著者の実際の治療プロセスに基づいた「知る」ための克明なデータが記されている。ここまで情報をわかりやすく開示してくれた著者に頭が下がる。
最後に中村医師の言葉を引いておこう。
「理想のチーム医療とは、医師のみならず、看護婦、薬剤師、ソーシャルワーカーなど多職種の人が、お互いの情報を共有し、協力し合う中で育まれるものといわれます。さらに、私たちは、その一員に患者さん自身も加わることが究極のチームと考えています」
本書を読んでいると、そんな究極のチームの可能性を感じる。名医とのラッキーな出会いは偶然ではない。それまでの著者の生き方が運んできてくれたものなのだ。本書が実に爽やかな読後感を残す理由はそこにある。
―「図書新聞」掲載
乳がんは日本人女性のがんの死亡率のトップを占める。初期段階で発見できれば再発はほぼゼロに押さえ込めるため、集団検診などではマンモグラフィーを取り入れるところも多くなっている。また、本人が触って発見できる唯一のがんということで、「自己チェックを定期的に行うように」という啓発がさかんに行われている。
ここまでは、女性なら大方は知識として承知していることである。しかし、実際にわが身に乳がんの疑いがふりかかってきたらどうだろう。多くの女性はどうして私が、と頭が真っ白になり、オタオタしてしまうだろう。
しかし、本書の著者はちがった。何げなく自分で触診してしこりを発見したとたんに「乳がんではないか」と思い、すぐさま病院に行く。初診の医師に不信をいだくや、周囲の信頼できる人に相談して、ただちに病院を変え、その結果、乳がん治療の名医にめぐり合い、「中村先生は、私にとって信頼できる医師であり、尊敬できる人である」「患者に病院に行くことを楽しく思わせてくれる中村先生は、私にとって、世界で一番の主治医である」「私は乳がん治療に関して、中村先生のおっしゃることは《信じて悔いなし》と思っているので、絶対的に信じ、指示に従っていくつもりである」と言い切るまでの信頼感を抱くにいたる。
こうした信頼関係は、ひとえに著者の前向きな生き方から生まれている。
「『乳がん』だった時期も私の人生の一部で、『乳がん』になったことはマイナスなことかもしれませんが、意外に多くのプラスももらったということです。すでに『乳がん』が私の人生の一部になってしまったのであれば、『乳がん』にかかった事実も含めて、前向きによく頑張った自分を抱きしめてあげたいと思っています」(あとがき)
こう言い切れる著者は素晴らしいと思う。
著者は当時三十九歳。広告制作会社の専務をつとめるバリバリのキャリアウーマンである。著者が選んだ病院は聖路加病院。そこで本書の監修者でもある乳がんの名医、中村清吾医師と出会う。
この初対面のときの感想がふるっている。十一時の予約で診療をしてもらえたのは六時すぎ。このとき、著者に中村医師に関する知識は、乳がん治療の名医という以外、ほとんどなかったそうだ。
「診察室の扉を開けて中に入る。中村先生は、やはり、できた人だった。中村先生のほうから『こんにちは』とあいさつをしてくださった。当たり前のことだけど、結構できない人が多いんだよね〜。」診療終了後、「『ありがとうございました』と言うと、『今日はお待たせしてしまって、すみませんでした』と先生から言われた。正直言って驚いた。耳を疑ったほどだ。そんなことを『先生』と呼ばれる人が言うなんて、露ほども思っていなかったからだ。先生こそ、長い時間お疲れだと思う。」
この感想は、著者が乳がん治療に積極的に立ち向かう大きな原動力となっていく。
両親には告げず、親代わりとも言える会社の社長に相談。しかし「犯罪者じゃないんだからこそこそしたくない」と、ともに仕事をしている会社のみんなには状況をはっきり知らせる。妹と親友に打ち明けたあとは、ひたすら中村医師を信じて治療に邁進する。
明確な診断がつくまでの長い検査をへて、ようやく治療方針が決定する。著者が治療を受けた二〇〇五年当時は、手術前に抗がん剤の投薬および放射線治療をしてがんを小さくしてから手術するという治療方法は日本では臨床試験段階の先進治療だったが、著者は「よりメリットがありそうな治療を受けられる資格があるなら、せっかくだからやってみよー」とその臨床試験に参加する。
そして九ヶ月にわたる抗がん剤治療と放射線治療、手術までの様子が、カラッと爽やかな筆致で活写されていく。闘病記を面白いといっては失礼だが、読者は著者といっしょに中村医師に向かい合い、RI&CTを受け、抗がん剤を打たれ、ストレッチャーに乗ってドキドキしながら手術台に運ばれていく。生き生きとディテールに富んだ文体は、まさに乳がんに率直に向かい合う著者そのものである。
中村医師は「賢い患者とは、自分をよく知っている人」とおっしゃっているそうだ。また、ポジティブシンキングが治療に間接的な効果があるとも。しかし、それは、なにもがん患者に特別なことでなく、「日常の生活の中で、どんなシチュエーションであっても必要なことです」と著者は記す。そして、「乳がんと告知されたとしても、いますぐどうにかなってしまうわけでもないですし、治療方法も飛躍的に進歩してきていますので、前向きに治療していけば、怖さは克服できると思います。そのためにはやはり『知る』ことです。その『知る』きっかけとしてこの本が役立てば嬉しいことです」
巻末には、著者の実際の治療プロセスに基づいた「知る」ための克明なデータが記されている。ここまで情報をわかりやすく開示してくれた著者に頭が下がる。
最後に中村医師の言葉を引いておこう。
「理想のチーム医療とは、医師のみならず、看護婦、薬剤師、ソーシャルワーカーなど多職種の人が、お互いの情報を共有し、協力し合う中で育まれるものといわれます。さらに、私たちは、その一員に患者さん自身も加わることが究極のチームと考えています」
本書を読んでいると、そんな究極のチームの可能性を感じる。名医とのラッキーな出会いは偶然ではない。それまでの著者の生き方が運んできてくれたものなのだ。本書が実に爽やかな読後感を残す理由はそこにある。
物語のなかへ14
マリー・ルイーゼ・カシュニッツ著 田尻三千夫訳『わたしのギリシャ神話』(同学社)
―「図書新聞」掲載
ギリシャ神話を読もうと思ってアポロドーロスの『ギリシャ神話』を買い求め、幾度となくチャレンジしてはあまりのややこしさに挫折した経験がある。しかし、最近、藤原伊織の遺作『ダナエ』を読んで、再びギリシャ神話への思いがふくらんだ。王女ダナエは孫に殺されるという託宣を信じた父、アクリシオス王によって塔に幽閉されるが、黄金の雨となって侵入したゼウスと交わり、息子、ペルセウスが生まれる。小説ではエルミタージュ美術館に収蔵されていたレンブラントの「ダナエ」に硫酸をかけられてしまうというエピソードを引き、それにオーバーラップするように物語が進行していく。
この託宣は思わぬ形で実現してしまうのだが、小説の主人公が語るダナエの物語は、親と子、男と女の関係の深淵をあぶりだすようで小説をひときわ印象深いものにしていた。ギリシャ神話は系統立てて読むものというよりも、その世界に魅せられた現代の語り部たちを水先案内人として読み進めるべきものなのかもしれないと思いつつ、本書を手にとった。
本書にはドイツの詩人・作家のマリー・ルイーゼ・カシュニッツが独自の視点で選び出し、再構成したギリシャ神話十六編が納められているが、「巫女シビュラで始められ、ケイローンが続き、神々の世界を中心とする物語はデーメーテールとへーパイストスに関するものだけで、エーオースで締めくくられるという構成はおそらく他には見られないでしょう」と訳者あとがきに記されている。
冒頭の巫女シビュラはこの世界と同じくらい古い存在で、生まれ落ちた時から岩の上で予言を始める。アポローンの妹、母、あるいは花嫁とも呼ばれるが、王位はアポローンに譲りあくまで巫女として国民に託宣をする役目にとどまる。時の流れとともに様々な姿で登場するが、シビュラは自然の王国の象徴であり、異郷の神々とキリスト教世界の橋渡しの役割を果たしたことが明かされていく。
シビュラを冒頭に置いたのは、カシュニッツがおそらく神話の花開く原郷をここに見たからに違いない。そこは東西が分かちがたく結びついた辺境の、精霊たちが跋扈する原野であった。巫女シビュラがデーメーテール、アンティオペー、ダナエ、ニオベーといった女神たちや女たちを呼び寄せていく。
巻末にはカシュニッツの略歴も添えられている。一九〇一年、ドイツ生まれ。夫は古典考古学者で古典時代のギリシャの陶器に造詣が深かった。二十六年から三十二年まで夫とともにローマに滞在したことが契機となって、文学的才能を開花させていく。第二次大戦下で長篇小説『エリッサ』を当初持ち込んでいたユダヤ系の出版社から引き上げ、別の出版社に乗り換えたことは彼女の大きな負い目になった。本書の初版は四十四年、戦時下のことである。
彼女は戦時下のフランクフルトでの生活を「内的亡命」ととらえ、ギリシャ神話の再話に取り組むことが「わたしたち流の抵抗だった」と苦しい胸のうちを伝えている。本書が内的亡命の日々の中でコツコツの書き進められた一冊であると知ってみると、彼女の神々の選択の中に、ナチス体制下であえぐヨーロッパ精神の深層心理とでもいうべきものがじわじわと滲み出ているような気がする。
カシュニッツの前書きも新版のための後書きも一つの作品のように濃密である。前書きでは自分が取り上げた神々、半身、英雄、妖精のすべてに共通するものは「産み出すと同時に破壊的でもある自然力の無意識的な跋扈から、運命に脅かされてはいても自らの意志で行動する人間精神の支配圏へと至る道程」であると語る。後書きでは、夫とともにギリシャの陶器画を見ながら神話の時空に思いをめぐらせ、「陶器画の優美で、時にはとても愉快な人物たち」が文学の中ではとても悲劇的に描かれていることが心にかかったと記されている。そして「絵と言葉の不一致」を「自分に対して決して十分に説明できてきませんでした」とし、戦後も本書で扱った素材に取り組み、五十二年に『イアーソーンの最後の夜』、五十三年に古いシビュラの話に基づいた十字架伝説、『十字架の劇』(いずれも放送劇)を書き、そのことによって「ようやく第二次大戦後に、わたしは神話の呪縛と南方の風土の呪縛からわが身を解き放ち、現在とこの時代の人間たちに取り組んだのでした」と後書きを結んでいる。
「神話の呪縛」と「南方の風土の呪縛」という感受は、西欧の知識人たちがギリシャ神話をどのように受容してきたかの一端を示していて興味深い。巫女シビュラを導入として一冊のギリシャ神話集を編み、さらにシビュラに基づいた物語を創作することで、彼女はこの世に「悲劇」を呼び込んでしまう「言葉」に改めて向き合うことになったのだろうか。
神話とは、このように一人の作家の中で醸成され生き続けていく人間の魂の物語であるのかもしれないと思わずにはいられなかった。
―「図書新聞」掲載
ギリシャ神話を読もうと思ってアポロドーロスの『ギリシャ神話』を買い求め、幾度となくチャレンジしてはあまりのややこしさに挫折した経験がある。しかし、最近、藤原伊織の遺作『ダナエ』を読んで、再びギリシャ神話への思いがふくらんだ。王女ダナエは孫に殺されるという託宣を信じた父、アクリシオス王によって塔に幽閉されるが、黄金の雨となって侵入したゼウスと交わり、息子、ペルセウスが生まれる。小説ではエルミタージュ美術館に収蔵されていたレンブラントの「ダナエ」に硫酸をかけられてしまうというエピソードを引き、それにオーバーラップするように物語が進行していく。
この託宣は思わぬ形で実現してしまうのだが、小説の主人公が語るダナエの物語は、親と子、男と女の関係の深淵をあぶりだすようで小説をひときわ印象深いものにしていた。ギリシャ神話は系統立てて読むものというよりも、その世界に魅せられた現代の語り部たちを水先案内人として読み進めるべきものなのかもしれないと思いつつ、本書を手にとった。
本書にはドイツの詩人・作家のマリー・ルイーゼ・カシュニッツが独自の視点で選び出し、再構成したギリシャ神話十六編が納められているが、「巫女シビュラで始められ、ケイローンが続き、神々の世界を中心とする物語はデーメーテールとへーパイストスに関するものだけで、エーオースで締めくくられるという構成はおそらく他には見られないでしょう」と訳者あとがきに記されている。
冒頭の巫女シビュラはこの世界と同じくらい古い存在で、生まれ落ちた時から岩の上で予言を始める。アポローンの妹、母、あるいは花嫁とも呼ばれるが、王位はアポローンに譲りあくまで巫女として国民に託宣をする役目にとどまる。時の流れとともに様々な姿で登場するが、シビュラは自然の王国の象徴であり、異郷の神々とキリスト教世界の橋渡しの役割を果たしたことが明かされていく。
シビュラを冒頭に置いたのは、カシュニッツがおそらく神話の花開く原郷をここに見たからに違いない。そこは東西が分かちがたく結びついた辺境の、精霊たちが跋扈する原野であった。巫女シビュラがデーメーテール、アンティオペー、ダナエ、ニオベーといった女神たちや女たちを呼び寄せていく。
巻末にはカシュニッツの略歴も添えられている。一九〇一年、ドイツ生まれ。夫は古典考古学者で古典時代のギリシャの陶器に造詣が深かった。二十六年から三十二年まで夫とともにローマに滞在したことが契機となって、文学的才能を開花させていく。第二次大戦下で長篇小説『エリッサ』を当初持ち込んでいたユダヤ系の出版社から引き上げ、別の出版社に乗り換えたことは彼女の大きな負い目になった。本書の初版は四十四年、戦時下のことである。
彼女は戦時下のフランクフルトでの生活を「内的亡命」ととらえ、ギリシャ神話の再話に取り組むことが「わたしたち流の抵抗だった」と苦しい胸のうちを伝えている。本書が内的亡命の日々の中でコツコツの書き進められた一冊であると知ってみると、彼女の神々の選択の中に、ナチス体制下であえぐヨーロッパ精神の深層心理とでもいうべきものがじわじわと滲み出ているような気がする。
カシュニッツの前書きも新版のための後書きも一つの作品のように濃密である。前書きでは自分が取り上げた神々、半身、英雄、妖精のすべてに共通するものは「産み出すと同時に破壊的でもある自然力の無意識的な跋扈から、運命に脅かされてはいても自らの意志で行動する人間精神の支配圏へと至る道程」であると語る。後書きでは、夫とともにギリシャの陶器画を見ながら神話の時空に思いをめぐらせ、「陶器画の優美で、時にはとても愉快な人物たち」が文学の中ではとても悲劇的に描かれていることが心にかかったと記されている。そして「絵と言葉の不一致」を「自分に対して決して十分に説明できてきませんでした」とし、戦後も本書で扱った素材に取り組み、五十二年に『イアーソーンの最後の夜』、五十三年に古いシビュラの話に基づいた十字架伝説、『十字架の劇』(いずれも放送劇)を書き、そのことによって「ようやく第二次大戦後に、わたしは神話の呪縛と南方の風土の呪縛からわが身を解き放ち、現在とこの時代の人間たちに取り組んだのでした」と後書きを結んでいる。
「神話の呪縛」と「南方の風土の呪縛」という感受は、西欧の知識人たちがギリシャ神話をどのように受容してきたかの一端を示していて興味深い。巫女シビュラを導入として一冊のギリシャ神話集を編み、さらにシビュラに基づいた物語を創作することで、彼女はこの世に「悲劇」を呼び込んでしまう「言葉」に改めて向き合うことになったのだろうか。
神話とは、このように一人の作家の中で醸成され生き続けていく人間の魂の物語であるのかもしれないと思わずにはいられなかった。
物語のなかへ13
ヒュー・ウォルポール著 長尾輝彦訳『ジェレミー少年と 愛犬ハムレット』(れんが書房新社)
―「図書新聞」掲載
本書はイギリスの作家、ヒュー・ウォルポールが一九一一年に発表した児童向け小説『ジェレミー』三部作の第二作目にあたる。作者はわが国では、代表作の『へリーズ年代記』や『銀の仮面』などで熱烈なファンを持つが、本書は本邦初訳である。
訳者はあとがきで、「イギリスの片田舎の骨董屋で思いがけなく発見した骨董品のような趣がある」と記しているが、主人公のジェレミー少年へ寄せる作者の温かいまなざしが作品をいぶし銀のような味わいに富んだものにしている。読後、私もすっかりジェレミー少年のファンになってしまったのだった。
ときは一八九四年。十歳のジェレミーが寄宿学校に入学して二年目の冬休みに、ポルチェスターに帰省したところから物語が始まる。舞台は実在の町ではないが、おそらく作者のヒュー・ウォルポールが寄宿学校生活を送ったイギリス北東部の町、ダーラムではないかと訳者の長尾氏は推測している。訳者あとがきに添えられたダーラムの大聖堂と城、その下を滔々と流れるウィア川の写真に誘われるように物語の世界に分け入っていった。
少年と同世代の読者なら、たちまちジェレミーと一緒になってポルチェスターの市場をうろつき、大聖堂の夜中の肝試しにドキドキし、愛犬ハムレットのひょうきんぶりに笑い、寄宿学校でのクリケットやラグビーの様子に胸を高鳴らせるだろう。
そして大人はこの物語の中で、もっとも繊細に世界に向き合っていた頃の自分に出会うだろう。世界が自分に重くのしかかってくるようでとても生きにくかったこと。大人との軋轢の中で異常なまでに神経を尖らせていたことを、まざまざと思い返すにちがいない。
同時に物語の背後にイギリスの片田舎にも及んできたキリスト教信仰の揺らぎや階級社会を少しずつ侵食して行く時代の荒波をひしひしと感じる。パリ帰りの絵書きのおじや植民地を渡り歩いた実業家のおじが牧師の父との対比で描かれ、そんな大人を見つめながら少年は自立を促されていく。
ジェレミーは牧師である父の潔癖なまでの正義感から、泥棒の濡れ衣を着せられて深く傷つく。自分の善意がこともあろうに正義の権化ともいうべき父によって真っ向から否定されてしまう……冒頭に置かれたこのエピソードが物語の通奏低音となって少年の造型を陰影に富んだものにしている。
少年がもっとも敬愛するのは絵描きのおじであり、深く友情を感じるのは避暑地カーリヨンで出会ったならず者一家(低階層)の少年である。大の本好きで古道具屋で『ロビンソン・クルーソー』をみつけて狂喜するいっぽうで、体は小さいのにラグビーの選手に選ばれるスポーツマンでもある。実業家のおじさんが家族の前で牧師である父の欺瞞性を痛罵すると、反論もできない父にそっと救いの手を差し伸べる。強い自己主張をするわけでもないのに、しっかりとその存在感を周囲に植えつけていく。
作者は一八八四年にニュージーランドで牧師の子として生まれ、五歳のときにイギリスに移り住んだ。一九〇六年にケンブリッジ大を卒業して聖職についたが、一九〇九年に作家に転じ、第一次世界大戦を挟んで三十年間にわたって作品を発表した。物語にはこうした作者のプロフィールが色濃く投影されていると思われる。
ジェレミーはパリから戻った絵描きのおじさんに画室で父とのいざこざを打ち明ける。するととおじさんは「死ぬまでには百万回も誤解されるだろう。だからほんとうにすきな仕事と、信頼できる友と、それに丈夫な胃袋があれば、それだけでもう感謝しなくてはいけないのだ」。そして、「この画室にはいつでも入ってきていいからね」と言ってくれる。
「ジェレミーの人生はあの半時間の出来事から始まったと言ってもよいほどです。ジェレミーは、鏡の国のアリスのように、川をこえ、わがものとなるべき領土へと足をふみいれたのでした」
十歳の私にも新しい領土をもたらしてくれたおばたちがいた。さまざまな本があった。新しい領土への入り口をこじあけてくれる存在を持っていたことは無上の幸せであったと今つくづく思う。
本書はきっと読者のそんな一冊になるにちがいない。
「イギリス文学には、『こどもは大人の父親である』という有名な詩句を残したウィリアム・ワーズワースに始まり、チャールズ・ディケンズやジョージ・エリオットらによって成熟した伝統――『子どもの心』を好んで題材にするという伝統がある。ウォルポールが書いた『ジェレミー』三部作は、その伝統を受け継いだものであり、間違いなく後世に残る文学遺産と言える。翻訳を手がけた理由もそこにある」(訳者あとがき)
たしかにジェレミーは私たちの父親であるとも言える。これが読後の率直な感想である。
―「図書新聞」掲載
本書はイギリスの作家、ヒュー・ウォルポールが一九一一年に発表した児童向け小説『ジェレミー』三部作の第二作目にあたる。作者はわが国では、代表作の『へリーズ年代記』や『銀の仮面』などで熱烈なファンを持つが、本書は本邦初訳である。
訳者はあとがきで、「イギリスの片田舎の骨董屋で思いがけなく発見した骨董品のような趣がある」と記しているが、主人公のジェレミー少年へ寄せる作者の温かいまなざしが作品をいぶし銀のような味わいに富んだものにしている。読後、私もすっかりジェレミー少年のファンになってしまったのだった。
ときは一八九四年。十歳のジェレミーが寄宿学校に入学して二年目の冬休みに、ポルチェスターに帰省したところから物語が始まる。舞台は実在の町ではないが、おそらく作者のヒュー・ウォルポールが寄宿学校生活を送ったイギリス北東部の町、ダーラムではないかと訳者の長尾氏は推測している。訳者あとがきに添えられたダーラムの大聖堂と城、その下を滔々と流れるウィア川の写真に誘われるように物語の世界に分け入っていった。
少年と同世代の読者なら、たちまちジェレミーと一緒になってポルチェスターの市場をうろつき、大聖堂の夜中の肝試しにドキドキし、愛犬ハムレットのひょうきんぶりに笑い、寄宿学校でのクリケットやラグビーの様子に胸を高鳴らせるだろう。
そして大人はこの物語の中で、もっとも繊細に世界に向き合っていた頃の自分に出会うだろう。世界が自分に重くのしかかってくるようでとても生きにくかったこと。大人との軋轢の中で異常なまでに神経を尖らせていたことを、まざまざと思い返すにちがいない。
同時に物語の背後にイギリスの片田舎にも及んできたキリスト教信仰の揺らぎや階級社会を少しずつ侵食して行く時代の荒波をひしひしと感じる。パリ帰りの絵書きのおじや植民地を渡り歩いた実業家のおじが牧師の父との対比で描かれ、そんな大人を見つめながら少年は自立を促されていく。
ジェレミーは牧師である父の潔癖なまでの正義感から、泥棒の濡れ衣を着せられて深く傷つく。自分の善意がこともあろうに正義の権化ともいうべき父によって真っ向から否定されてしまう……冒頭に置かれたこのエピソードが物語の通奏低音となって少年の造型を陰影に富んだものにしている。
少年がもっとも敬愛するのは絵描きのおじであり、深く友情を感じるのは避暑地カーリヨンで出会ったならず者一家(低階層)の少年である。大の本好きで古道具屋で『ロビンソン・クルーソー』をみつけて狂喜するいっぽうで、体は小さいのにラグビーの選手に選ばれるスポーツマンでもある。実業家のおじさんが家族の前で牧師である父の欺瞞性を痛罵すると、反論もできない父にそっと救いの手を差し伸べる。強い自己主張をするわけでもないのに、しっかりとその存在感を周囲に植えつけていく。
作者は一八八四年にニュージーランドで牧師の子として生まれ、五歳のときにイギリスに移り住んだ。一九〇六年にケンブリッジ大を卒業して聖職についたが、一九〇九年に作家に転じ、第一次世界大戦を挟んで三十年間にわたって作品を発表した。物語にはこうした作者のプロフィールが色濃く投影されていると思われる。
ジェレミーはパリから戻った絵描きのおじさんに画室で父とのいざこざを打ち明ける。するととおじさんは「死ぬまでには百万回も誤解されるだろう。だからほんとうにすきな仕事と、信頼できる友と、それに丈夫な胃袋があれば、それだけでもう感謝しなくてはいけないのだ」。そして、「この画室にはいつでも入ってきていいからね」と言ってくれる。
「ジェレミーの人生はあの半時間の出来事から始まったと言ってもよいほどです。ジェレミーは、鏡の国のアリスのように、川をこえ、わがものとなるべき領土へと足をふみいれたのでした」
十歳の私にも新しい領土をもたらしてくれたおばたちがいた。さまざまな本があった。新しい領土への入り口をこじあけてくれる存在を持っていたことは無上の幸せであったと今つくづく思う。
本書はきっと読者のそんな一冊になるにちがいない。
「イギリス文学には、『こどもは大人の父親である』という有名な詩句を残したウィリアム・ワーズワースに始まり、チャールズ・ディケンズやジョージ・エリオットらによって成熟した伝統――『子どもの心』を好んで題材にするという伝統がある。ウォルポールが書いた『ジェレミー』三部作は、その伝統を受け継いだものであり、間違いなく後世に残る文学遺産と言える。翻訳を手がけた理由もそこにある」(訳者あとがき)
たしかにジェレミーは私たちの父親であるとも言える。これが読後の率直な感想である。
病理という世界へ 6
村上智彦 著
『村上スキーム 地域医療再生の方程式』評(エイチエス)
―「通販生活」掲載
連日の医療崩壊のニュースに暗い気持ちを抱いている人にぜひ読んでもらいたい1冊である。こんなに熱く地域医療に取り組む医師が存在しているのだと思うと、「できることはまだまだある」と希望が湧いてくる。
その人の名は村上智彦さん。財政破綻した夕張市に乗り込んで、つぶれかけていた夕張市立総合病院を公設民営の診療所として再出発させた人である。村上医師の生い立ち、地域医療への関心を深めていく経緯、夕張での取り組み、日本の医療の問題点や未来について、インタビュー形式で本音がじっくり語られている。
副題の「地域医療再生の方程式」が示すように、村上医師は「夕張に町づくりのために来たんです」と言う。どこの病院でもCTやMRIが受けられる必要はない。高度先端医療は都市部に集中させ、高齢化率の高い田舎の病院は予防とケアに取り組むべきだという主張は、明快だ。
問題は医療の側だけではない。医者も悪いが患者も悪いと村上医師は言う。「コンビニ診療」や救急車をタクシー代わりに使うなどもっての他だと。
「高齢化社会に合わせて、医療側も予防医療にもっとシフトチェンジした方がいいと思います」
「町づくりなんです、医療って」
そうだ。私たちが毎日暮らしているこの町のことなのだと思い知らされる。
『村上スキーム 地域医療再生の方程式』評(エイチエス)
―「通販生活」掲載
連日の医療崩壊のニュースに暗い気持ちを抱いている人にぜひ読んでもらいたい1冊である。こんなに熱く地域医療に取り組む医師が存在しているのだと思うと、「できることはまだまだある」と希望が湧いてくる。
その人の名は村上智彦さん。財政破綻した夕張市に乗り込んで、つぶれかけていた夕張市立総合病院を公設民営の診療所として再出発させた人である。村上医師の生い立ち、地域医療への関心を深めていく経緯、夕張での取り組み、日本の医療の問題点や未来について、インタビュー形式で本音がじっくり語られている。
副題の「地域医療再生の方程式」が示すように、村上医師は「夕張に町づくりのために来たんです」と言う。どこの病院でもCTやMRIが受けられる必要はない。高度先端医療は都市部に集中させ、高齢化率の高い田舎の病院は予防とケアに取り組むべきだという主張は、明快だ。
問題は医療の側だけではない。医者も悪いが患者も悪いと村上医師は言う。「コンビニ診療」や救急車をタクシー代わりに使うなどもっての他だと。
「高齢化社会に合わせて、医療側も予防医療にもっとシフトチェンジした方がいいと思います」
「町づくりなんです、医療って」
そうだ。私たちが毎日暮らしているこの町のことなのだと思い知らされる。
ジェンダーをめぐって 3
仙波千秋 著
『良妻賢母の世界 近代日本女性史』評(慶友社)
―「図書新聞」掲載
「良妻賢母」といういわば死語めいた言葉の背後に広がる世界に分け入り、良妻賢母思想は女性を抑圧するイデオロギーであるというだけでは括れないという視点に立って近代日本女性史を読み解いていく意欲的な労作である。
著者は本書において「『良妻賢母』たれと求められる中で生きる場を築き自己実現を果たそうとした女の多様な営みを描き出すことを目的とする。既成の『良妻賢母』のイメージにとらわれずに女のさまざまな営みを描き出し、明治という時代を生きた女の姿を明らかにしていきたいと考える」と述べる。
そのために取られた方法が実にユニークである。明治期に次々と発刊された「女学」の雑誌を資料とし、しかも、編集者や執筆者の記事を検討するのでなく、投稿や投書を通じて読者である女性たちの思いを読み取ろうと試みていく。
今日の女性誌の淵源をたどれば、この明治期の「女学」の雑誌群に行き着くだろう。女性のライフスタイルの変化に応じて、女性雑誌は変遷を遂げてきたが、多くの女性たちが雑誌を通じてさまざまな生活上の情報を得、それをヒントに自分の生き方を考えてきたという相互関係はいまでもまったく廃れてはいないように思われる。
ましてや明治初期のように圧倒的に情報量の少ない時代にあって、「女学」の雑誌が女性たちに及ぼした影響は計り知れないものがあったにちがいない。私たちはこれまで「性差別の抑圧とそこからの解放」という視点で女性史をたどることに終始してきたように思われる。もちろん欠かすことのできない重要な視点であることには違いないが、「新しい女たち」がいるいっぽうで、ごく普通に暮していた圧倒的多数の女性たちは自分たちの「女性性」をいったいどのように考えていたのか。著者は女学の雑誌を読み解くことを通じて、時代の波に翻弄され、男=国家の論理に巻き込まれる日々の中で、女性たちがただ唯々諾々とその生を男に捧げていたのではなかったことを明らかにしていく。そこには二十一世紀の現代を生きる私たちのジェンダーの無意識層をも炙り出す重要な手がかりが潜んでいることにも改めて気づかされる。
第一章では、「女学」の雑誌の勃興期とその変遷に光をあて、「当初男が女のあり方を議論することを目的としていた」女学の雑誌が、「女子教育の拡大により雑誌の購読者が増加する中で、女が自らの生きる途を模索する場となっ」ていく様子が丹念にたどられる。
第二章では『女学世界』を媒介に、女学生の登場、女学校の寄宿舎、裁縫女学校や職業学校を取り上げる。若い女性にとって「「一芸」を以て生活の糧を得て家庭を担うことは、「良妻賢母」像にとって欠くべからざるものであったという指摘は新鮮である。
第三章のテーマは「家庭」である。明治中期以降、「家庭の担い手」としての女性の果たす役割の重要性がこぞって雑誌に取り上げられるようになり、そうした情報を手がかりに自分たちの生き方を模索する女性たちの姿が、雑誌への投稿・投書を通じて明らかにされていく。「家族」「家庭」「一家団欒」といった言葉はこの時期、誌上に登場して認知されていく様子が明らかにされている。
最終章では雑誌への投稿や投書を通じて女が自ら筆を執り投稿・投書することに込めた志を丁寧に読み取っていく。
私たちの祖母や母の時代において、抑圧と疎外の只中で自ら築くべき「家庭」は彼女たちの自己実現のかけがえのない場所であった。彼女たちは文字通りそこを自らのホームとして充実させるために料理や裁縫の技を学び、雑誌への投稿や投書を通じてお互いにエールを交換し合っていたのである。
それは良妻賢母という規範への女性の側からの反撃であったかもしれない。人間の生の基本は「生活」であり「生活」の場所を切り盛りすることは自己実現と不可欠であるという熱いメッセージがそこに込められているだろう。そしてそれは、ジェンダーを超えて生活者として自立する人間にとっての基本であり、いまもあり続けているはずだと本書は私たちに語りかけてくるようだ。明治期の女性たちのこうした模索の積み重なりの上に私たちの今日が存在するのだと。
「抑圧・疎外された存在ではなく、時代の子として自らの足で歩もうとした女の姿を、明治を生きた女の言葉を以て再現していくことを本書の使命と考えている」という著者の思いは十二分に果たされていると思われる。
『良妻賢母の世界 近代日本女性史』評(慶友社)
―「図書新聞」掲載
「良妻賢母」といういわば死語めいた言葉の背後に広がる世界に分け入り、良妻賢母思想は女性を抑圧するイデオロギーであるというだけでは括れないという視点に立って近代日本女性史を読み解いていく意欲的な労作である。
著者は本書において「『良妻賢母』たれと求められる中で生きる場を築き自己実現を果たそうとした女の多様な営みを描き出すことを目的とする。既成の『良妻賢母』のイメージにとらわれずに女のさまざまな営みを描き出し、明治という時代を生きた女の姿を明らかにしていきたいと考える」と述べる。
そのために取られた方法が実にユニークである。明治期に次々と発刊された「女学」の雑誌を資料とし、しかも、編集者や執筆者の記事を検討するのでなく、投稿や投書を通じて読者である女性たちの思いを読み取ろうと試みていく。
今日の女性誌の淵源をたどれば、この明治期の「女学」の雑誌群に行き着くだろう。女性のライフスタイルの変化に応じて、女性雑誌は変遷を遂げてきたが、多くの女性たちが雑誌を通じてさまざまな生活上の情報を得、それをヒントに自分の生き方を考えてきたという相互関係はいまでもまったく廃れてはいないように思われる。
ましてや明治初期のように圧倒的に情報量の少ない時代にあって、「女学」の雑誌が女性たちに及ぼした影響は計り知れないものがあったにちがいない。私たちはこれまで「性差別の抑圧とそこからの解放」という視点で女性史をたどることに終始してきたように思われる。もちろん欠かすことのできない重要な視点であることには違いないが、「新しい女たち」がいるいっぽうで、ごく普通に暮していた圧倒的多数の女性たちは自分たちの「女性性」をいったいどのように考えていたのか。著者は女学の雑誌を読み解くことを通じて、時代の波に翻弄され、男=国家の論理に巻き込まれる日々の中で、女性たちがただ唯々諾々とその生を男に捧げていたのではなかったことを明らかにしていく。そこには二十一世紀の現代を生きる私たちのジェンダーの無意識層をも炙り出す重要な手がかりが潜んでいることにも改めて気づかされる。
第一章では、「女学」の雑誌の勃興期とその変遷に光をあて、「当初男が女のあり方を議論することを目的としていた」女学の雑誌が、「女子教育の拡大により雑誌の購読者が増加する中で、女が自らの生きる途を模索する場となっ」ていく様子が丹念にたどられる。
第二章では『女学世界』を媒介に、女学生の登場、女学校の寄宿舎、裁縫女学校や職業学校を取り上げる。若い女性にとって「「一芸」を以て生活の糧を得て家庭を担うことは、「良妻賢母」像にとって欠くべからざるものであったという指摘は新鮮である。
第三章のテーマは「家庭」である。明治中期以降、「家庭の担い手」としての女性の果たす役割の重要性がこぞって雑誌に取り上げられるようになり、そうした情報を手がかりに自分たちの生き方を模索する女性たちの姿が、雑誌への投稿・投書を通じて明らかにされていく。「家族」「家庭」「一家団欒」といった言葉はこの時期、誌上に登場して認知されていく様子が明らかにされている。
最終章では雑誌への投稿や投書を通じて女が自ら筆を執り投稿・投書することに込めた志を丁寧に読み取っていく。
私たちの祖母や母の時代において、抑圧と疎外の只中で自ら築くべき「家庭」は彼女たちの自己実現のかけがえのない場所であった。彼女たちは文字通りそこを自らのホームとして充実させるために料理や裁縫の技を学び、雑誌への投稿や投書を通じてお互いにエールを交換し合っていたのである。
それは良妻賢母という規範への女性の側からの反撃であったかもしれない。人間の生の基本は「生活」であり「生活」の場所を切り盛りすることは自己実現と不可欠であるという熱いメッセージがそこに込められているだろう。そしてそれは、ジェンダーを超えて生活者として自立する人間にとっての基本であり、いまもあり続けているはずだと本書は私たちに語りかけてくるようだ。明治期の女性たちのこうした模索の積み重なりの上に私たちの今日が存在するのだと。
「抑圧・疎外された存在ではなく、時代の子として自らの足で歩もうとした女の姿を、明治を生きた女の言葉を以て再現していくことを本書の使命と考えている」という著者の思いは十二分に果たされていると思われる。




