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2019-02

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〈本〉の彼方 12

ソーントン不破直子 著『孤独な殿様』(春風社刊)
―「図書新聞」掲載

 わたしは著者の“鎌倉三猫シリーズ”の愛読者である。通り一遍の擬人化とは違う、猫たちの息づかいまでがそっくり伝わってくるような語りに魅了されてきた。猫たちが暮らす鎌倉の自然が次第に失われていくことへの愛惜が、人間よりも自然に近い動物たちの生き方を描くことでより切々と伝わってきた。
 そんな著者が殿様?と興味津々で手に取ったが、その筆致はいっそう伸びやかさを増して時空を超え、一気に四百年の往還の旅へと連れて行ってくれた。 
 奥飛騨、帰雲城の殿様は、天正大地震(一五八六年)直後に不死の存在に転生し、鴉を供に能衣装をまとったまま時空を彷徨うこととなる。なぜ殿様は四百年もの長い間、人間世界の時空を行ったり来たりしているのか。「天地の繰り返しは人智では不可知なものだと言うことではないのか」と自問する殿様とともにその不可知さに分け入っていった。
 本書を読むまで天正大地震については一切知らなかった。しかし、これほど地震の多い国に生きていれば、四百年前に奥飛騨の小さな村を襲った地震とその後は、自分たちの現在に容易に重ね合わせられることを殿様のタイムトラベルから教わった。殿様は、「(略)地震の繰り返しだけはどうしても心にひっかかる。私がこのような不可解な境遇になったのがあの庄川の大地震のせいだと思うと、地震と自分との間にどのような謎があるのかと考えずにはいられない」とつぶやく。そうか。殿様の魂が大地の揺らぎに共振してこの世に引き止められたのだ。
 金鉱で繁栄した奥飛騨の一帯は、天正大地震で土砂に埋もれ、その後、何度も地震に襲われる。戦前は金鉱に代わってモリブデン鉱で繁栄し、やがて発破という人工地震によって御母衣ダムがつくられる。村は巨大な御母衣湖の湖底に沈み、地上は建設ラッシュ。にぎわう御母衣銀座を見おろしながら殿様はこんな不吉なことをつぶやくのだ。「あの天正大地震くらいの地震がまた飛騨に起これば、この堤防は決壊し(略)、御母衣湖は姿を消すだろう。それが十年後か、四百年後かは分からぬが、わたしはいつかそれを見ることになるのだろう」と。
 こうした自然と人との関係は、場所を変えた東京・渋谷の歓楽街でも繰り広げられているという展開に意表を突かれる。殿様は水没した村から東京に出てきた家族が棲みついた渋谷を訪れ、「いくつかの急坂が取り囲んで谷底に下りて行く地形」が故郷、奥飛騨の地形に似ていることに気づく。そういえば昔は「隠亡谷」と呼ばれた火葬場だった。明治の中頃からは花街として栄えてきた。奥飛騨の御母衣銀座の賑わいもオーバーラップするなあ。そして、いまはラブホ街となった一帯で、昼間は電気を作って売る大きな会社、東電につとめるOLが殺される。事件を目撃した料亭猫のゆずが、「山の中に大きな湖を作ったり(略)、海辺の工場で原子力というものを作ったりして電気を起こすそうです。電気はもともとは真っ暗な山奥や海辺でできるものなんだと知りました」と語る。そして「東京電力に勤めていたのに電気の来ない暗くて寒い部屋で死んでいたのがかわいそうだ」と言うと、花街のフェミキャット、ちづちゃんはこんなことを言う。
 「電気を使っている人みんなで殺したっていうことよ。」
 そう、東京・渋谷の東電OL殺人事件は、御母衣ダム、ひいては四百年前の奥飛騨の天正大地震とも実は深くつながっているのだ。
 物語は3・11を察知する殿様の嘆きとともに幕を閉じる。本書の冒頭にエピグラフとして置かれたエリオットの『荒地』からの一節が甦る。
 「君達の傍にもうひとりの人がいつも/歩いているがそれは誰だ?」
 それが能衣装をまとった殿様だとしたら、私たちの救いがたくも愚かな営みの繰り返しに少しだけ日が射すような気がしてくる。その分、殿様はめちゃくちゃ孤独なのかもしれないけれど。
 本書は天災に翻弄され自然に依拠しつつも自然を破壊して生きていくしかない人間の来し方行く末を、鴉や猫やさまざまな人々の心模様を織り込んで綴った、現代版の鳥獣戯画絵巻とでも呼びたい一冊である。
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〈本〉の彼方 11

ソーントン不破直子 著『鎌倉三猫いまふたたび』(春風社刊)
―「図書新聞」掲載

 あの鎌倉山の三匹の猫たちはどうしているかなあと、ときどき思い出していたから、本書で「ふたたび」会えて、うれしいことこのうえなしである。ホクホクして読みすすめた。三匹の猫、小町、タマ吉、みなみはそれぞれが縁あって、鎌倉山の学者夫妻のもとで家族として暮らしている。三匹はいずれも個性的で魅力たっぷりなのだが、本書では自然豊かなご近所に宅地造成の話が持ち上がって、三匹それぞれの日常にも変化が起きていく。
 さて、私たちはたまたま人間として生まれたり、猫として生まれたりしてこの世で暮らしているのだが、小町は北鎌倉から飛んで来るハシボソガラスの半僧坊、「やみよ」と「つぶて」に触れながら、面白い自説を語る。半僧坊とは半分僧侶で半分カラスのことで、「昔はこういう『かけあわせ』みたいな動物が人間からも動物からも慕われていました……つまり、生物には外からは見えない、いろいろな他種の生物の要素が埋め込まれているのです」というのだ。「一種一生物」ではなくて「多種一個体」とは、面白い。小町が旦那様とご長男の「断続平衡的進化論」というお話に自らの観察と思索を交えて導き出したセオリーだそうだが、これは卓見である。
 インテリ猫の小町―実は知を超えたもっとすごい存在なのだが、それは本書を読んでのお楽しみ―とは際立った違いを見せるのが、アビシニアンの血を引くらしい野生児、タマ・ザ・ラッパーこと、タマ吉である。鼻唄ラップでずんずんご近所の山野に分け入っていく。釣鐘人参と蜂は一つの植物、「半虫半花」なのだということを知っているのは、タマ吉だけ。冒険は山野だけじゃない。タマ吉はラッパー魂を発揮して、人の心の中にもずんずん分け入っていく。測量にきたおじさんに近づいて行って弁当をわけてもらい、一緒に昼寝する。なかなかできることじゃない。
 末っ子のみなみは詩人である。夜が明けると白いタンコブみたいになってしまうカラスウリの花をみて、こうつぶやく。「本当に夏の一夜の夢の花です……どうして世の中には、ありふれた場所にこんなに美しいものが、ほとんど誰の目にもとまらないようにあるんだろう」と。
 助けたつもりの野ネズミを思わず食べてしまい、「食べているうちに、神社に行く途中でみた、カラスウリの夢のような白い花が心に浮かびました。あれももうすぐ白い小さなタンコブになってしまうと思いました。なんだか、いろんなことがつらくて、悲しくて、何でこんなことなってしまったんだろう……」と思うみなみ。
 読みつつ、わが家の猫を思った。彼女もしきりに話しかけてくることがある。狭いマンション暮らしで外とのふれあいはベランダだけだが、飛んできた蜂が南瓜の花に潜り込んだことを報告したかったのか、宅配便のお兄さんが「おや、猫だ」と言ってくれたのがうれしかったのか。三匹があまりにいきいきと鎌倉山を闊歩しているからマンション猫はかわいそうと思ってしまうが、タマ吉はタマ吉で、「自然の中で自由に生きているカラスやタヌキとおいらみたいに人間に飼われて人間の父ちゃんや母ちゃんに育ててもらっているのと、どっちがいいのかな」ともらす。そう、それもこれもこの世の出会いなんだよね。
お父さんのソーントンさんは歴史言語学者でバスク語を研究しているらしい。好奇心旺盛な英文学者のお母さんはどうもカフカが好きらしい。小町のカフカ好きはお母さん譲り。「あの鋭く、そして悲しいまでのやさしさに満ちた目はカラスの目です。カフカという方は、犬族の悲しみがわかっていたのです」などと小町は思う。バスク語とカフカが鎌倉山の自然の中で渾然一体となるのも、「多種一個体」だからこそだろうか。
造成工事で起こった、ある不思議な出来事は、「多種」とは現世を生きる者たちだけでなく、時空を超えて集結したいのちの集合体であることを告げているのかもしれないと思った。

物語のなかへ22

田口ランディ 著『指鬘物語』(春秋社刊)
―「図書新聞」掲載

 不思議なタイトルに惹かれて頁を開いた。「指鬘」は仏陀の弟子であるアングリマーラの漢語訳で、アングリには指の意味もあるそうだ。
 本書は著者にとって初めての短編集で、四〇〇字にして一〇枚ほどの掌編小説が二十四編収められているが、作品の多くは指をめぐる物語である。著者はあとがきで「あたりまえのことが、奇跡のように思える。その一瞬をとらえるのが、短編を書く面白さ」と語っているが、アングリマーラを基軸にした二十四編の周到な配置ともあいまって、田口ランディは短編もいい。いや、短編がいい。そう思ってしまった。
 冒頭に「青空」と題した二十五年間服役中の死刑囚の話、そして最後に「谷に眠る指」として、アングリマーラをホーリーネームとして与えられたオウム真理教の男(教祖を裏切って自首し、死刑が確定して服役中―)を発端にした話が置かれている。
アングリマーラは修行者だったときに、師から不貞の誤解を受ける。百人殺してその指を首輪にしたら悟ることができると教えられて、仏陀に出会うまでに九九人も殺した。仏陀に会って解脱したとはいえ、殺人者である。アングリマーラも死刑囚も、殺してまで何を得たかったのか。それは得られたのか。この問いが、『指鬘物語』の通奏低音をなしている。
 「青空」で描かれる、死刑囚が見た夢には、著者の救済をめぐる思念がこめられているように思われる。この夢を呼び水のようにして、さまざまな人生の局面が「指」をキーワードに切り取られていく。
 赤ん坊を授かった若い家族の話、老親と同居して最期を看取る高齢夫婦の話、亀やハムスターの命の話……物語の多くは、ありふれた日常のひとこまだが、そこには田口ランディならではの透徹した眼差しでとらえられた、時空を超えて行き交うものの存在がたしかに描かれている。
 「アングリ」は、酒鬼薔薇聖斗の事件を遠景においた物語だ。姉を失い身代わりのように子供を身ごもった「私」は、テレビで流れる事件に引きつけられる。
 「人間の壊れやすさを確かめるため、少年は少女の頭をハンマーで殴った。その行為に『アングリ』と名付けた。/アングリ、と聞いたとき、少年が自分の指を光に透かし、返すがえす眺めている姿が見えた。この指は、なぜ動いているのか、この指で、何が出来るのだろう、と」。
 そして、自殺した姉から聞いたアングリマーラの話を思いだす。赤子に乳を含ませつつ、アングリマーラは救われたと教えてくれた姉の短かった一生を思っている。
 どの話にも死の影が静かに射し込んでいて胸をつかれるが、集中最も好きな一編は「リリ」。長生きした亀の話だ。リリの死を察知したとき、「私」は思う。「身体は、意識よりもずっと敏感にこの世界の出来事を察知しているのかしら」と。リリの話に指は直接出てはこないが、ここで言う「身体」を「指」と言い換えてもいいだろう。いつも「洞穴で瞑想する修行者」のように暗い隅にうずくまっていたリリが死ぬ。「その時、初めてリリは、巨大な琥珀色の甲羅から四本の足を伸ばし、全身全霊で私の中心に立ち上がり、周辺に追いやることなど不可能なトーテムとなった」と一編は締めくくられる。
 「指の不思議は人の不思議、いのちの不思議」とあとがきにあるとおり、指は人が人を慈しむために神から授かった大切な道具であると同時に、人が人を殺める道具にもなり得る。
 そして、指は、それらのすべてを包み込んで荘厳するかのように物語を紡ぎ出していく「手仕事」のために存在しているのだ。
大切に心に刻みつけていたはずの宝物のような記憶も、歳月とともに指の間をほろほろと零れ落ちていく。老いるとはそういう日々に直面することでもある。人生の晩年へ足を踏み入れて、おぼろになった自らの記憶への哀惜を込めて「奇跡のような一瞬一瞬」をゆっくりと味わった。

旅・紀行から 2

土井清美 著『途上と目的地――スペイン・サンティアゴ徒歩巡礼路旅の民族誌』(春風社刊)
―『図書新聞』掲載

 「巡礼」という言葉には単なる旅とは異なる、深い響きを感じる。大切な存在を訪ねてひたすら山野をさすらう。もちろん、徒歩である。足裏で大地を感じることは巡礼には欠かせない。道中の苦難こそが大切な存在をより純化するからだ。さすらうこと自体に意味があるのだ。無宗教でありながら、私が小川国夫の『ヨーロッパ古寺巡礼』(一九七六年刊)や高橋たか子の『巡礼地に立つ』(二〇〇四年刊)などを愛読していたのも、そんな思いを重ねていたからだろう。巡礼は人の心の古層に宿る願望のようなものなのかもしれない。
 本書はエルサレム、ローマと並ぶ世界三大聖地の一つ、サンティアゴ・デ・コンポステラを目指してカミーノと呼ばれるパリを起点に五百キロの道を徒歩で歩きつづける巡礼者たちに焦点をあてた「旅の民族誌」である。聖地巡礼をフィールドワークのテーマにする場合、聖性やキリスト教とはなにかといった宗教の問題は避けて通れないのではないかと思ったのだが、著者は「超越的なものを最初から前提とすることを避けたい」とし、巡礼を「旅と宗教的実践の両方を含む意味において用いることにする」と断っている。私はそのことに逆に興味をおぼえた。宗教的動機は聖地巡礼を試みる人々にとって程度の差こそあれ、現在でも決して無視することのできない要素だと思う。しかし、それを研究の前面に出しすぎることで零れ落ちてしまうこともまたあるのに違いない。さらに言えば、宗教とは縁遠い人間でも漂泊への思いにかられることは多々ある。私たちのそんな思いを凝縮した形で実践してくれている人々が今日の巡礼者であると言えるのかもしれない。
 著者はグッツォーニの「住まいつつさすらうこと」という視点を手がかりに、サンティアゴ徒歩巡礼を「途上」という様態として捉えようと試みる。
 「徒歩の旅とは(……)移り変っていく周囲の景色が自分の活動にどのような意味や価値をもつのかよくわからぬまま手探りしながら進むのに似ている。(……)そこで経験される、あたりにある事物の間を縫って行く動きの限定性と未知の世界に開かれている開放性が共存する感覚は(……)野原や坂道などで地平線を目にする際に誰もが経験的に知るところである」と述べる著者は、「土地との直接的で具体的な結びつき」を肉体的な限界を通じて味わうとする人々を対象に、彼らと「展望を共有する」ことを通じて、巡礼の諸相に分け入っていく。「調査対象となる人々の活動リズムをとそれにともなう風景の立ち現われ方を共有する」ために、〇七年~一二年にかけて、巡礼者とともにのべ何百キロも巡礼路を歩き、巡礼者用宿泊施設アルベルゲでボランティアでお世話係も務める。本書はそのフィールドワークの結晶である。
 第1章サンチャゴ巡礼の概要につづいて、第2章から巡礼者たちへのフィールドワークが展開していく。要所要所に巡礼者たちから寄せられた日記が事例として差し入れられているので、旅日記を読むような愉しみもある。
 宗教性をことさら前面に出すことなく展開されている論考ではあるが、読み終えたいま、目的地をいただいて歩きつづける営為、「途上」こそが実はひとつの信仰のありようなのではないかと私には思われる。サンティアゴの大聖堂が多くの巡礼者にとってアンチクライマックスとして現れるのはそのことを物語っているだろう。「住まいつつさすらう」ことの中にもそうした心性は反映しているはずだ。
 最終章で次の文章に出会った。
 「カミーノを歩くことで次々と現れる魅力に光をあてたのは、『遠くなってしまったフィールドへの憧憬』によるものかもしれない。遠いものへの憧れ、すなわちエキゾティシズムは、ある時から政治問題のなかに絡め取られ、近年の人類学的議論においては半ばタブー視される傾向がある。しかし遠いものへの憧れは、フィールドワークに基づく研究が誕生した頃から、フィールドを目指す者とその経験を回想して筆を執る者の双方を常に突き動かす原動力であったのであり、(……)『遠さ』というものが、ものごとを『近づける技術』の論理だけでは捉えきれない生のあり方を考える一つの重要な鍵になると私は考えている」。
 レヴィ・ストロースの時代から時は流れ、旅や徒歩といった日常的な営為にまで文化人類学のフィールドは広がっているのかと驚いたが、「遠いものへの憧れ」が若い著者の原動力でもあると知ってうれしかった。そして山椒大夫に出てくる安寿と厨子王の苦難の旅から四国八十八か所のお遍路さん、伊勢詣や富士講など、日本の巡礼についても思いは広がっていった。

物語のなかへ21

ヨナス・ヨナソン 著・中村久里子 訳『国を救った数学少女』(西村書店刊)
―「図書新聞」掲載

 五〇〇頁近い大長編だが、舞台の時空が一九七〇年代から三〇年間の世界情勢とダイナミックにリンクして最後まで一気に読み通さずにはいられない不思議な魅力に満ちている。
著者のヨナス・ヨナソン氏はスウェーデンの作家で、テレビ、新聞などのメディアで長く仕事をしてのち作家に転身、前著『窓から逃げた百歳老人』は世界中で百万部も売れた大ベストセラーだという。本書はそんな著者待望の第二作である。
本書の魅力のひとつは、南アフリカ共和国の貧民街に生まれながら、数学にたけた能力を駆使して人生を賢く冷静に切り開いていく主人公の女の子、ノンベコである。そしてもうひとつは、ノンベコに絡んでくる人々が、一九七〇年代から八〇年代の南アフリカ共和国を軸にスウェーデン、中国、イスラエルの政治に深くかかわっている人物たちであることだろう。楽しんで笑っているうちに、実はいま自分が生きている世界が、とるに足らない人間たちの浅慮によって構築された儚い砂上の楼閣であること、そして自分たちがノンベコのような果敢さをどこかに置き忘れて生きていることに気づかされる。
 物語は一九七〇年代のヨハネスブルグ近郊の下層民居住地区ソウェトから始まる。狂言回しに使われるのは、なんと原子爆弾である。それを言わば大人のおもちゃのように見做して、ラグビーボールさながらのパス回しで物語をグイグイ引っ張っていく。
黒人の少女ノンベコは、貧民街のし尿処理場で働いている。勇敢で頭がよくて、とくに数学に天才的な才能を発揮し、語学力にもすぐれている。権力を振り回す役人たちが、実は中身がカラッポで無能であることにあきれつつ、15歳にして所長としての仕事を切り盛りしている。そして、貧民街で出会った「変人タボ」から字を学び、彼が所有している本を読みあさるようになる。週に1度はラジオで「アフリカの展望」を聞きながら、ソウェトの外の世界に思いをはせる。この蓄積が彼女の人生を大きく変えていくことになる。
当時の南アフリカ共和国では、九〇年代までつづくアパルトヘイト政策が強烈に進められていた。支配層の白人は全人口の数%である。役人にたてついて仕事を失ったノンベコは首都プレトリアの国立図書館を目指す。
 「そこはたしか、黒人立ち入り禁止地区ではないはずだ。少し運がよければ、中に入れるだろう。入って何をするか、本の香りをかいで眺めを楽しむ以外のことは思いつかなかった。でも、それが始まりになる。文学はきっと自分を前に進ませてくれる」と彼女は確信していたのだが……。
 図書館を目指したはずのノンベコは原子力研究所に幽閉されるはめになる。当時のフォルスター大統領が実名で登場し、研究所に六発の原子爆弾を一刻も早くつくるようにと矢の催促をしてくる。これは物語上のフィクションかと思っていたのだが、気になって調べたら事実だった。七〇年代から八〇年代にかけて、南アフリカではまさに六発の核兵器がひそかに製造・配備され、その後廃棄されたことが九三年に明らかにされている。著者はこの事実があったからこそ、原子爆弾を狂言回しに据えて物語を紡いでいったのだろう。
 物語では中国の要人やイスラエルの諜報部員がこの研究所を訪れ、所長の秘書的な役目を引き受けているノンベコと接触する。舞台がスウェーデンに移ってからも彼らは重要な役目を果たす。アフリカと言えば、ヨーロッパ列強によっていいように国土を細分化され、奴隷として売買され、独立後も血みどろの民族紛争に明け暮れ、エイズやエボラ出血熱に倒れる人々が続出……という後進世界のイメージしか抱いていなかったが、実は当時の核開発競争から無縁でないどころか密接に関係していたことが見えてくる。
 少女の冒険譚がこんな世界の政治状況を手玉にとるものであることが痛快だ。
 核の恐怖が実は幻想と紙一重であること、そして、にもかかわらず核はあちこちの国家の倉庫で眠っていることの滑稽さと恐ろしさ。そしてこの事態を切り開いていくことができるのはたった一人の果敢な女の子の叡智かもしれないとしたら、ちょっとは世界を見直したくもなるのだが。
 あとは物語に分け入っていただくしかない。

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プロフィール

梶葉子

Author:梶葉子
読書のよろこびはなにものにもかえがたいものです。
私を実に実に遠くまで連れ去って
みえない世界を垣間見させ
そこに吹く風や漂う香りを感じさせてくれる
書物に感謝しつつ
ささやかな感想をしたためていきま

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