2017-10

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物語のなかへ22

田口ランディ 著『指鬘物語』(春秋社刊)
―「図書新聞」掲載

 不思議なタイトルに惹かれて頁を開いた。「指鬘」は仏陀の弟子であるアングリマーラの漢語訳で、アングリには指の意味もあるそうだ。
 本書は著者にとって初めての短編集で、四〇〇字にして一〇枚ほどの掌編小説が二十四編収められているが、作品の多くは指をめぐる物語である。著者はあとがきで「あたりまえのことが、奇跡のように思える。その一瞬をとらえるのが、短編を書く面白さ」と語っているが、アングリマーラを基軸にした二十四編の周到な配置ともあいまって、田口ランディは短編もいい。いや、短編がいい。そう思ってしまった。
 冒頭に「青空」と題した二十五年間服役中の死刑囚の話、そして最後に「谷に眠る指」として、アングリマーラをホーリーネームとして与えられたオウム真理教の男(教祖を裏切って自首し、死刑が確定して服役中―)を発端にした話が置かれている。
アングリマーラは修行者だったときに、師から不貞の誤解を受ける。百人殺してその指を首輪にしたら悟ることができると教えられて、仏陀に出会うまでに九九人も殺した。仏陀に会って解脱したとはいえ、殺人者である。アングリマーラも死刑囚も、殺してまで何を得たかったのか。それは得られたのか。この問いが、『指鬘物語』の通奏低音をなしている。
 「青空」で描かれる、死刑囚が見た夢には、著者の救済をめぐる思念がこめられているように思われる。この夢を呼び水のようにして、さまざまな人生の局面が「指」をキーワードに切り取られていく。
 赤ん坊を授かった若い家族の話、老親と同居して最期を看取る高齢夫婦の話、亀やハムスターの命の話……物語の多くは、ありふれた日常のひとこまだが、そこには田口ランディならではの透徹した眼差しでとらえられた、時空を超えて行き交うものの存在がたしかに描かれている。
 「アングリ」は、酒鬼薔薇聖斗の事件を遠景においた物語だ。姉を失い身代わりのように子供を身ごもった「私」は、テレビで流れる事件に引きつけられる。
 「人間の壊れやすさを確かめるため、少年は少女の頭をハンマーで殴った。その行為に『アングリ』と名付けた。/アングリ、と聞いたとき、少年が自分の指を光に透かし、返すがえす眺めている姿が見えた。この指は、なぜ動いているのか、この指で、何が出来るのだろう、と」。
 そして、自殺した姉から聞いたアングリマーラの話を思いだす。赤子に乳を含ませつつ、アングリマーラは救われたと教えてくれた姉の短かった一生を思っている。
 どの話にも死の影が静かに射し込んでいて胸をつかれるが、集中最も好きな一編は「リリ」。長生きした亀の話だ。リリの死を察知したとき、「私」は思う。「身体は、意識よりもずっと敏感にこの世界の出来事を察知しているのかしら」と。リリの話に指は直接出てはこないが、ここで言う「身体」を「指」と言い換えてもいいだろう。いつも「洞穴で瞑想する修行者」のように暗い隅にうずくまっていたリリが死ぬ。「その時、初めてリリは、巨大な琥珀色の甲羅から四本の足を伸ばし、全身全霊で私の中心に立ち上がり、周辺に追いやることなど不可能なトーテムとなった」と一編は締めくくられる。
 「指の不思議は人の不思議、いのちの不思議」とあとがきにあるとおり、指は人が人を慈しむために神から授かった大切な道具であると同時に、人が人を殺める道具にもなり得る。
 そして、指は、それらのすべてを包み込んで荘厳するかのように物語を紡ぎ出していく「手仕事」のために存在しているのだ。
大切に心に刻みつけていたはずの宝物のような記憶も、歳月とともに指の間をほろほろと零れ落ちていく。老いるとはそういう日々に直面することでもある。人生の晩年へ足を踏み入れて、おぼろになった自らの記憶への哀惜を込めて「奇跡のような一瞬一瞬」をゆっくりと味わった。
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物語のなかへ21

ヨナス・ヨナソン 著・中村久里子 訳『国を救った数学少女』(西村書店刊)
―「図書新聞」掲載

 五〇〇頁近い大長編だが、舞台の時空が一九七〇年代から三〇年間の世界情勢とダイナミックにリンクして最後まで一気に読み通さずにはいられない不思議な魅力に満ちている。
著者のヨナス・ヨナソン氏はスウェーデンの作家で、テレビ、新聞などのメディアで長く仕事をしてのち作家に転身、前著『窓から逃げた百歳老人』は世界中で百万部も売れた大ベストセラーだという。本書はそんな著者待望の第二作である。
本書の魅力のひとつは、南アフリカ共和国の貧民街に生まれながら、数学にたけた能力を駆使して人生を賢く冷静に切り開いていく主人公の女の子、ノンベコである。そしてもうひとつは、ノンベコに絡んでくる人々が、一九七〇年代から八〇年代の南アフリカ共和国を軸にスウェーデン、中国、イスラエルの政治に深くかかわっている人物たちであることだろう。楽しんで笑っているうちに、実はいま自分が生きている世界が、とるに足らない人間たちの浅慮によって構築された儚い砂上の楼閣であること、そして自分たちがノンベコのような果敢さをどこかに置き忘れて生きていることに気づかされる。
 物語は一九七〇年代のヨハネスブルグ近郊の下層民居住地区ソウェトから始まる。狂言回しに使われるのは、なんと原子爆弾である。それを言わば大人のおもちゃのように見做して、ラグビーボールさながらのパス回しで物語をグイグイ引っ張っていく。
黒人の少女ノンベコは、貧民街のし尿処理場で働いている。勇敢で頭がよくて、とくに数学に天才的な才能を発揮し、語学力にもすぐれている。権力を振り回す役人たちが、実は中身がカラッポで無能であることにあきれつつ、15歳にして所長としての仕事を切り盛りしている。そして、貧民街で出会った「変人タボ」から字を学び、彼が所有している本を読みあさるようになる。週に1度はラジオで「アフリカの展望」を聞きながら、ソウェトの外の世界に思いをはせる。この蓄積が彼女の人生を大きく変えていくことになる。
当時の南アフリカ共和国では、九〇年代までつづくアパルトヘイト政策が強烈に進められていた。支配層の白人は全人口の数%である。役人にたてついて仕事を失ったノンベコは首都プレトリアの国立図書館を目指す。
 「そこはたしか、黒人立ち入り禁止地区ではないはずだ。少し運がよければ、中に入れるだろう。入って何をするか、本の香りをかいで眺めを楽しむ以外のことは思いつかなかった。でも、それが始まりになる。文学はきっと自分を前に進ませてくれる」と彼女は確信していたのだが……。
 図書館を目指したはずのノンベコは原子力研究所に幽閉されるはめになる。当時のフォルスター大統領が実名で登場し、研究所に六発の原子爆弾を一刻も早くつくるようにと矢の催促をしてくる。これは物語上のフィクションかと思っていたのだが、気になって調べたら事実だった。七〇年代から八〇年代にかけて、南アフリカではまさに六発の核兵器がひそかに製造・配備され、その後廃棄されたことが九三年に明らかにされている。著者はこの事実があったからこそ、原子爆弾を狂言回しに据えて物語を紡いでいったのだろう。
 物語では中国の要人やイスラエルの諜報部員がこの研究所を訪れ、所長の秘書的な役目を引き受けているノンベコと接触する。舞台がスウェーデンに移ってからも彼らは重要な役目を果たす。アフリカと言えば、ヨーロッパ列強によっていいように国土を細分化され、奴隷として売買され、独立後も血みどろの民族紛争に明け暮れ、エイズやエボラ出血熱に倒れる人々が続出……という後進世界のイメージしか抱いていなかったが、実は当時の核開発競争から無縁でないどころか密接に関係していたことが見えてくる。
 少女の冒険譚がこんな世界の政治状況を手玉にとるものであることが痛快だ。
 核の恐怖が実は幻想と紙一重であること、そして、にもかかわらず核はあちこちの国家の倉庫で眠っていることの滑稽さと恐ろしさ。そしてこの事態を切り開いていくことができるのはたった一人の果敢な女の子の叡智かもしれないとしたら、ちょっとは世界を見直したくもなるのだが。
 あとは物語に分け入っていただくしかない。

物語のなかへ20

大倉真道 著『聖霊少女(セイント)「錫(スズ)」の大冒険――闇と光の戦い』(竹林館)
―「図書新聞」掲載

 錫(すず)という、一風変わった名前を持つ少女がこの物語の主人公である。全二一章、総ページ数八五〇頁を越える超大作だが、面白くて一気に読み通してしまった。
 女性性の一つの特質として、巫女性があげられると思う。それは女性の神観念と密接に結びついているだろう。女性にとって神は性を超えた絶対的な存在というよりは、対の関係性の中で浮上してくるかけがえのない存在である側面が強い。ところが世界の悪と戦う聖霊少女、錫には対幻想的な視点というか異性観念が希薄なのだ。なぜなら、彼女は両性具有的存在として物語の中で位置づけられているからだ。
 錫の二人の親友は彼女をTTO、「単純、天然、臆病」と揶揄するが、性を超えた錫のキャラクターが、この物語を自由な風の吹き渡るファンタジーにしていると言ってもいいだろう。
 タイトルは聖霊少女と銘打たれているが、聖霊とはこの物語では「聖霊師」という職業としてまず登場する。
 「聖霊師は悪霊を追い払う除霊とは違い、悪に冒(おか)された霊を元の善なる御霊(みたま)に戻してやること」とある。霊はもともときれいなものであるという認識のもとに、霊に付着した汚れを取り去ってもとのきれいな霊に戻すのが聖霊師なのである。人間存在の根幹は聖霊であるからこそ、錫や少女たちは世界を悪から守るために戦うのだ。
 錫は十八歳になったのを機に聖霊師である父の見習いをつとめるようになる。人間界では十八歳の少女であるが、実は神の国では非常に高い霊能力を備えた霊神の一人、〈錫雅美妙王尊(しゃくがうましみょうおうのみこと)〉であり、重大な使命を帯びて人間界にやってきたという設定である。本編はファンタジックにつづられた錫の成巫儀礼の修業の日々と言っていいかもしれない。
 たぐいまれな霊力をそなえつつTTPな錫を支えるのは、二人の親友と祖母、母、そして錫の祖父とともに修業を積んだイタコの〈気障(きざわ)りの婆(ばあ)〉である。この女性たちの時空を超えた靭帯が錫の任務遂行をサポートしていく。物語の発端をつくった祖父も聖霊師の父もこの物語ではいわば脇役。連綿とつづく女性たちの物語と思うと、いっそう爽快である。そういえば、神の国のいちばんエライ〈天甦霊主(あめのそれいぬし)〉も女性のようだ。気持ちよく読み通せたのはそんなことも影響しているかもしれない。
 天上は死んだ者の魂が平和に暮らす楽園、白の国と生前素行の悪かった人の魂が行く言わば地獄のような黒の国と、もう一つ、白の国を支配しようとする邪悪な狡狗たちの跋扈する拗隠の国がある。狡狗たちとの戦いに威力を発揮する宝器は人界のどこかに隠されている。それを発見するために人間界に派遣されたのが錫なのだ。
錫のかたわらには狡狗から錫が救い出した狛犬みたいな存在、「いし」がつき従っている。
 錫といしの信頼関係も、この物語を奥行きのある深々としたものにしている。霊の力は人間と動物の言葉を超えた交感に置き換えてみるともできるのではないだろうか。疑うことのない無辜な存在に向き合ううちに魂が通じ合う……動物好きな人なら日々感じていることだ。そう考えるとこの物語はありふれた日常を、視点を変えて捉えてみたともいえるのかもしれない。
 錫(すず)の母は鈴子(りんこ)、大切な神器のひとつが集気鈴……世界に鳴り響く美しい鈴の音と温かみのあるユーモラスな会話が時空を超えた聖戦をどこかのどかなものにしている。本編が『錫』シリーズ第一弾となっているところを見ると、錫の戦いはいま緒についたばかりなのだろう。天上界にも人界にもまだまだ一波乱も二波乱もありそうだ。錫を応援しながら錫から元気をたっぷりもらった。次回作が楽しみだ。

物語のなかへ19

泉りょう 著『迦陵頻のように』(編集工房ノア)
―「図書新聞」掲載

 五つの短編が収められている。それぞれの主人公は人生の後半にさしかかった、五十代とおぼしい女性たちだ。同世代の多くの女性たちが多かれ少なかれ抱え込んでいるに違いない心の暗部が主人公たちに仮託されている。私自身もそんな一人として共感をもって読み進めた。
 家族の離散や死別などの変化に加えて個体としての老いが容赦なく襲ってくる五十代。対の関係性は空気のような存在になるどころか微妙な歪みや亀裂をあちこちに生じさせていく。生物的な産む性とジェンダーとしての性を合わせもつ女性にとって、老いと折り合いをつけて生きていくことはたやすいことではない。本書の主人公たちが感じている満たされなさや淋しさ、取り返しのつかなさは、老いへ向かっていく中でいかに対の関係性を捉えなおし、また深めていけるかを裏側から問うている姿とも言えるだろう。
 触れようとするとたちまち日常性の中に霧散して行ってしまう心の翳りやゆらぎを、作者は生活のディテールを通じてくっきりと浮かび上がらせていく。
 たとえば「三伏の候」の一人暮らしのミチルの朝のひととき。「毎朝、テレビの画面が立ち上がるこの瞬間、ミチルの胸はざわつく。このハンサムなアナウンサーが、いつもの顔で、『今日で世界は終わりました』と、告げるのではないかと、思うのだ。このアナウンサーならば、どんなニュースも、爽やかに涼やかに伝えてくれることだろう」。世界と対峙するときのミチルの孤独感はこんなふうに私たちに手渡される。
 「玉の緒」では居酒屋のカウンターに男と並んでいる会話の合間にこんな描写が挿入される。「憮然としながら、理子は煮付けた里芋に箸を伸ばした。煮崩れる直前で火からおろした里芋は、きちんと面取りされた包丁跡を残していた。気持ちよく、すうっと箸が通った」。ここで理子は里芋の煮付けを男の心を取り出して味わうかのように味わっている。
 「三伏の候」のミチルは着物の派遣販売員。両親を見送ったのち家を整理して五十歳も半ばを過ぎてからローンを組んでマンションを買う。着物は女性を魅了してやまないものだが、愛着が深ければ深いほどに情念の深みへと誘う悪魔のような存在でもある。着物を仲立ちにした女同士のからまりあうような駆け引きは「三伏」の暑さの中でえんえんと続いていくようだ。
 「迦陵頻のように」の唱子は大学の卒論の指導をしてくれた歳の離れた教官と結婚する。長い結婚生活を経て、いまは深まる夫の老いを覚めた目で見据えている。夫の死後に見た迦陵頻の舞に、唱子は夫が少年だったときの姿を重ね、深夜のコンビニで出会った少年を重ね、自身の体内におこっているかもしれない兆しに耳を澄ます。
 「玉の緒よ」の理子は同僚の妻子ある教師と式子内親王を通じて親しくなる。二人とも式子内親王に惹かれているが、理子は式子内親王が死の床で会うことを熱望した法然がついに彼女のもとを訪れなかったことを許しがたいと言う。しかし男は、行かなかった法然に与する。二人の思いのベクトルは正反対の方向に向かっていく。
着物、迦陵頻、式子内親王……他の二編も合わせ、どの物語にも魅惑的な触媒が配置されていて主人公たちの人生と反応しながら、対の関係、家族の関係をあぶりだしていく。選ばれた触媒はいずれもそれぞれの女性の造形と拮抗していて、作品の奥行を深めている。
 あとがきには「これらの執筆時期は、私の五十代の十年間にほぼ重なります。五十代は女のターニングポイントなのかもしれません。私には、とても充実した、面白い十年間でした。/今年還暦を迎えますが、今私は、少女の頃のように、軽やかで自由な気がしています」と書かれている。
 親しい者との死を経験し迫りくる老いを見据えつつ、今が「少女の頃のように、軽やかで自由」と言う著者のその軽やかな心持ちが、作品の中の女性たちの意志的なまなざしにあらわれていて、暗さの底を突き抜けていこうとする明るさを感じさせる。

物語のなかへ18

キム・ジュンヒョク 著・波田野節子、吉原育子 訳『楽器たちの図書館』
(クオン)
―「図書新聞」掲載

 韓国で刊行された書籍を日本語に翻訳し出版している韓国専門出版社のクオンが刊行を開始したシリーズ『韓国の新しい文学』の第二弾が本書である。
 三十一歳の著者、キム・ジュンヒョクの日本で出版されるはじめての短編集である。そして、私にとっては初めて読む韓国作家の小説ということになる。収められた八つの作品はいずれもみずみずしくそしてどこか硬質で、翻訳の文体もあるのかもしれないが無国籍的な雰囲気を漂わせていた。植民地時代の記憶のトラウマにことさら注意深くある必要もないのだと思うと、李良枝や柳美里の小説を読んできたものの一人として改めて感慨を禁じえなかった。
 訳者の一人、波多野節子氏があとがきで本書の背景や翻訳出版の事情を詳しく述べているので、そのあたりはあとがきに譲り、さっそく本書の作品世界に踏み込んでみよう。
本書の冒頭には作者から読者へのメッセージがおかれている。
 「この短編集は僕からみなさんに贈る録音テープです。テープには全部で八曲の歌が録音されています」「それでは、みなさんのカセットデッキの青い再生ボタンを押して、僕が録音した音を聴いてみてください」
 今の韓国の若者の文化状況は日本とほとんど変わらないとすると、自分の作品をあえて「カセットテープ」として読者に差し出すところに、著者の一つの意思を感じる。カセットテープの青い再生ボタンを押す……このきわめてマニュアルな動作が、八つの短編に向き合うための基本姿勢だと作者は言っているのだ。
カセットテープといういまやノスタルジックな遺物と化した道具(その背後には本がほのみえる)に愛惜を感じるだけでなく、現代を生きる人間の心を託す器として大切にしたいと真摯に考えているのだ。デジタル化が極限まですすんだときの人間の心の荒廃に敏感な人なのだと思う。
 アナログからデジタルへという激しい変化を真っ向から浴びているものの一つに「音」が上げられるだろう。その意味で作者が音をテーマに選んだことは大変に意図的である。
 音には形がない。存在してもたちまち消えてしまう、まるで心のように。太古の時代から変らない、音のもつこの原始的な力がギターやレコードやオルゴールや電話やパソコンとともにつづられていく。
 八つの小説はすべて一人称で書かれている。
 電気製品のマニュアルを文学へと昇華しようと試みる僕(『マニュアルジェネレーション』)、楽器店でアルバイトをしながら、店に並ぶ楽器の音をコンピュータでサンプリングした〝楽器の音ジュークボックス〟をつくる僕(『楽器図書館』)、若者Bからエレキギターの手ほどきを受けているうちに、エレキの波動?で心臓がおかしくなりやめてしまう僕(『僕とB』)、そしてきわめつけは音痴の友人Dの公演をプロデュースする「僕」(『調子っぱずれのD』……こうして並べてみると、音との向き合い方にいずれも共通点があることに気づかされる。
いずれの「僕」も現実の社会ではちょっと異端。ビジネスによる自己実現を当たり前のこととして受け止めることに生きにくさを感じている。そして、そこで諦めるのでなく、ひそかに風穴をあけようとしている。本人にはそんな積極的な意志はないのだけれど。
 おおげさな言い方をすれば、資本主義のどんづまりの社会を生きながら、ポスト物質文明に向かって無意識に触手を伸ばしている人間とでも言ったらいいだろうか。
 圧倒的なビジネス優先社会の中で敗者として葬り去られていく人々があるいっぽうで、ささやかだけれどかけがえのない居場所をつくって、大事なものを守ろうとしている人々がいる。
複雑な電気機器に背を向けるのでなく、無味乾燥なマニュアルに命を吹き込み道具との付き合い方を深化させようとする「僕」は、消費社会の次にやってくるだろう世界の予感をはらんでいる。エレキギターに心臓をやられて一時遠ざかった「僕」は、Bという若者を通じて再びエレキギターを手にとってみようとする。アコースティックギターに戻るのでなく、再びエレキに向かおうとする「僕」の姿もまた暗示的だ。
 楽器は音を発して私たちを慰謝し刺激してくれるが、使い手はあくまで人間。その人間は自然の一部であり、どこまでいってもアナログであることに自覚的であり続けるのは、意外にむずかしい。だから、この小説の主人公たちの存在が光る。未来を照らす。

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プロフィール

梶葉子

Author:梶葉子
読書のよろこびはなにものにもかえがたいものです。
私を実に実に遠くまで連れ去って
みえない世界を垣間見させ
そこに吹く風や漂う香りを感じさせてくれる
書物に感謝しつつ
ささやかな感想をしたためていきま

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