2017-08

家族をめぐって 5

木村まき 著
『空にまんまるの月』・評(西田書店)
―「図書新聞」掲載

 この詩集の著者、木村まきさんはどんな人なんだろう。読み進めるにつれて、だんだんその思いが強くなっていきました。作品は作品として味わいつつ、そんな思いを抑えきれなくなったのはなぜでしょうか。
 愛する人との別れをとことんまで味わいつくすことで、別れのつらさを生きつくし、生き残った悲しさ、淋しさを生のエネルギーにして命をつむいでいこうとする思いの、あまりの深さに打たれたからです。どの詩もとても静かで穏やかであればあるほどに。

   それから先は
   こころで送っていった
   「いいよ」と言ったひとを
   こころで送っていった

   こころに
   お別れはない

 巻頭の『それから先は』です。「こころ」でなら、どこまででも、たとえ生死の境を越えてでも送って行けると詩人は語ります。偶然この世に生まれ落ちて必ず死んでいく。私たちのこの世の時間は不思議です。なんのためにと問うのは詮無いことでしょう。生まれたからには必ず出会いがあり別れがあります。出会いと別れのひとつひとつが、人生を刻んでいきます。そして、やがてどんな出会いも生の必然のように感じられるようになったとき、それを晩年と呼ぶのでしょうか。
 晩年は別れが目白押しです。淋しさが豊饒です。だから、この淋しさをとことん味わいつくすしかないと詩人は語っているかのようです。
 『よばれたら』という詩があります。

   よばれたら
   「はい」ってこたえよう

   ちいさくけれどきっぱりと

 気持ちのいい決意です。しかし、続きを読むとただならないものを感じます。

   いっしょうのうちでいちばんいい
   「はい」をする

   はなびらのまいちるまひる

   わたしは
   ちいさな「はい」をれんしゅうした

 そうか、この詩のテーマは「別れの予感」なんだな。別れのその日のための一度きりの「はい」なんだな。そして次の頁をめくると『挨拶』。そこには(たぶん焼き場であらわになった)お骨のことが描かれていました。
 切なくなりました。しかし、詩人は悲しんでばかりいるわけでもないようです。『食卓』では、ひとりの家でごはんを炊いています。

   いない人と囲む食卓

   心がいっぱいやってきてほんわかどころではない

 そして最後の一行は「いない人のいるわが家はそうぞうしい」。好きな詩です。生きるって、生き残るってそういうことかもしれません。
 「世界」だった「あなた」は、東京・中野の病院で亡くなられたらしい。その最後のひとときは『あなたに』『ありがとう』『声』『0号室は平安です』『愛撫』などの美しい詩篇となって、滴りおちました。なかでも『0号室は平安です』は、「あなた」と「わたし」の二人っきりの時空を歌い上げて見事です。

   あなたはいっそううつくしく
   わたしはいっそうしあわせで
   ああ烏兎怱怱
   世界の愛をあつめてもなお

 この詩の最後に小さく「東京・中野のK病院では霊安室に0と表札がかけてある」と註が添えられていました。
 小沢信男氏の跋文で、木村まきさんは冤罪事件で知られる横浜事件の代表告訴人・木村亨氏の夫人で九十八年に木村氏没後その遺志を受け継ぎ、第三次再審請求人として活動しておられると知りました。
 木村まきさんはあとがきでこんなふうに語っています。
 「詩はどこからくるのでしょう。夫、木村亨が一九九八年七月一四日に死去し、私のからだは詩を嘔吐しました。詩として吐き出さなければ、自家中毒を起こし死んでしまったに違いありません」
 そうか。これらの詩はそんなふうにしてこの世に現れたものだったのか。そして、いまなお「あなた」と向き合って生き続けられるのも詩の力なのだと知りました。
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家族をめぐって 4

森さと子著『おこらないで看とりの季節』・評(東京経済)
―「図書新聞」掲載

 五十代も半ばを過ぎると、さまざまな死が周りを取り巻くようになる。肉親の死、友人、知人の死を経験するたびに味わう悲しみや辛さ……その積み重なりが、他人事のように遠くへ押しやっていた自らの死と向き合うことを教えてくれる。生者は、そうやって死を少しずつ自分のそばに手繰り寄せていく。 
 核家族化が進行し、結婚後の親との同居率はめっきり低下した。老いがすすんだとき、病を得たとき、死期が迫ってきたとき、家族頼みはできない。同時にこれまでのような家族の看とりが果たして最善なのかどうかを問われる時代でもある。介護保険制度がしっかりと本来の機能を果たしているとは言えない今日、私たちは家族頼みからアウトソーシングへの過渡期の中で揺れ動いている。
 しかし、本書に描かれたような「友が友の終末期を看とる」というケースは稀ではないだろうか。それだけに、家族にしろ法にしろ、「制度」では担い切れない「看とり」の本質を私たちに突きつけてくる。
 淳子は中学三年以来の著者の「大切な友」である。「人は私たちの仲を『無二の親友』と言う。しかし、私は『親友』という言葉を使わなかった。その言葉はあまりに一般的でしっくりこなかった。(略)私は『大切』という言葉が好きで、この言葉を使うときは、真心を込めて発するようにしている。淳子との間柄を、この言葉で愛情込めて発すると『大切な友』ということになる」
 長い歳月をかけて培ってきた信頼関係という土台があるとはいえ、どちらも五十代半ばに差し掛かっている。著者は子どもたちが巣立って現在は東京で夫との二人暮し。自身は花師として活躍している。淳子は「シングルで一人っ子、両親は高齢で身体に不自由はあるが存命で、親類縁者も皆無ではない。淳子はこれらをふまえて、乳がんの手術はしたものの、再発を察知し、死期を悟り、自分の最期を私に頼みたいと願っている」
 著者は夫に状況を説明しながら、京都の病院にいる淳子を看病しようと決意を固め、仕事を整理する。「今、一番大事なことは、大切な淳子の命を守ること」……そう言い切る著者に、夫は全面協力を約束する。五月の連休明けから、亡くなる八月二日まで、著者は淳子のマンションに住み、両親の世話をしながら毎日病院に通う。淳子が元気なうちに自身の死後のことを決めておいてもらおうと、心を鬼にして遺言を作成させる。医師と面談して抗がん剤の中止や延命措置についても踏み込んで話し合う。さまざまな医療の矛盾を、淳子に替わって受け止めていく。
「無我夢中で進んでいた道のり。苦しみ、あえぎながら泣いている自分がいた。できることしかできないが、できることはすべての力を出し切ってやるというのが私の持論だが、それ以上のことをやらねばならなかったその形相は、醜く歪んでいたかもしれない。〈もうあのときのような自分に、私は二度と出会いたくない…〉」
 「心痛共感」を誓い合っていてもそれが不可能であることを、二人はよく知っていたにちがいない。死ぬ人の気持は、死にゆく本人以外には絶対にわからないのだから。それは友人だけではない。伴侶であっても親子であっても同様である。しかし、だからこそ、最期の局面では、それまでにどんな関係性を築き上げてくることができたか、それがいかにお互いに心底満足し信頼し合えるものであったか、つまりは、その出会いが人生でどれだけかけがえのないものであったか、それだけが結晶のようにお互いの心の中で発光しつづける。それが死出の道を照らす。 
 ときどき登場する著者の夫にも、心からのエールを送りたい。必死の形相で看とりをやり遂げた著者の背後には、常に著者を支える夫の存在があった。著者が心置きなく友の看病に専念できたのは、夫と二人で築いてきた関係性があればこそと推察される。淳子は最期に、著者に夫という存在のかけがえのなさを改めて教えてくれたともいえるだろう。 
 淳子は著者に「怒らないで聞いて」と切り出して「私はあと1ヵ月なんでしょ」と尋ねる。著者はこのとき、自分の不注意で淳子に余命を知られてしまったことを知る。本書のタイトルはそこから取られている。自らの痛恨事をタイトルに選んだところに、著者の万感がこめられているだろう。
 これらのこともすべて含めて、「この経験は、淳子から私への最終のプレゼントだったのかもしれません。私はこの経験を宝物として、生涯忘れることはないでしょう」……著者がこうしたためるまでには三年という歳月が必要だった。
 <看とりの季節>……それは人と人の出会いの不思議とかけがえのなさをかみ締める時空なのだと痛感させられる。
 

家族をめぐって 3

青地久恵著
『大工の神様』・評(編集工房ノア)
―「図書新聞」掲載

 記憶の古層に埋もれている父母を掘り起こす作業は、自分と出会い直す旅でもあるだろう。二十年前に亡くなった著者の父は宮大工であった。著者はそのことを手がかりに過去への旅を開始する。
「押入れの棚から反物のように丸められた染みだらけの掛け軸が落ちてきた。くるくると巻かれた細い紐を解き広げて見ると、聖徳太子の立ち姿が描かれている。一瞬にして子どもの頃の正月が甦った」
 父は毎年大晦日の夜にこの掛け軸を取り出して飾り、その下に墨壺を置いた。幼い頃、父から聖徳太子は大工の神様であること、墨壺は大工のいのちであることを教えられた。  
 父は釧路市で大工の神様といわれた宮大工の田島与一郎氏の弟子だった。田島氏は越後の出身で、越後大工はその腕前を全国に知られる存在だったらしい。
 第一部は田島氏が残した日記を手がかりに父、由松氏の大工としての生き様に少しずつ光を当てていく。「二月一日ヨリ 由松弟子ニ取ル」「由松川湯ヘ上ル」……日記のところどころに出てくる父はわずか一行程度にすぎないが、そこから父と暮した日々がくっきりと立ち上がってくる。父ばかりではない。周辺の大工たちや施主たちとの関係が浮かび上がってきて、大工という非定住の職人集団の息づかいまで伝わってくるようだ。著者は法隆寺の宮大工、西岡常一氏らの本を読みながら、大工という職人集団の淵源に触れ、父がその流れを引いていることを誇らしく思う。
 第二部には幼い頃のエピソードがつづられているが、途中まで読んで、「えっ」と立ち止まってしまった。
「昭和十七年、川湯で生まれた私はこの夫婦の養女になった。(略)父四十一歳、母三十八歳であった」
 さらりと記すにとどめたところに著者の意思を感じた。父の仕事の後を辿り、さまざまな人々に会って話を聞きだす熱意、著者たち一家が暮した弟子屈町・川湯温泉の四季、父母との暮らし……抑制の効いた文章が、家族という絆の有り様を根底から問いかけてくる。
「なぜこんなことを覚えているのだろう。
 遥か遠い時間の彼方に消えてしまったはずの無数のできごと。その中から選ばれて、行き続けている事柄もあるのだ。しかしそれは自分で選んだ訳でもなく、意志というものも及ばず、いつ甦るのか、それさえ定かでない。自分の記憶なのになんと不思議なことだろう」
 父の姿が次第に見えてくるのに引き換え、母を辿るよすがはほとんどない。記述は少ないが、それだけにいっそう読者にその存在を印象づける。郷里の親族との連絡を絶ち、最後の肉親である兄が死んだときですら家を離れなかった母……心の中で過去を封印して生きた母とはどんな人だったのだろうか。
「母はだれにも語ることのできない悲しみを抱えて生きてきたのではないか。このことに気づくまでに、なんと多くの年月を要してしまったことだろう」「母が関市(郷里のー引用者注)を訪ねたという記憶もない。父も語らず、聴くこともできなかった。小学生の頃、人には語ることも聞くこともできない秘密のようなもののあることを肌身で知ったのである。仏壇の隅にひっそりと残された小さな写真。裏には母の字で、『昭和九年三月十二日・父上六十九歳でなくなった』と書かれていた」
 心の中に終生、父を住まわせていた母に、現在の自分が重なっていく。
 釧路の高校に通う十五歳の私のために、真冬の朝はやく玄関から五十メートルも先まで除雪して細い道をつける母の姿が、著者の脳裏に焼きついている。
「黒い影絵のようだった母の姿は、父や娘から遠く離れて、私たちの見知らぬどこかへ、道をつけているようにも見えるのだった」
 父も母も、さまざまな断念と自分だけの道を心に抱きつつ日々を生きていたのであろう。
 父母は川湯温泉の見晴らしのいい墓地に静かに眠っている。著者はそこに夫も葬ることになった。三人が眠る墓地に詣でる著者は心からくつろいでいるようだ。
 娘がたどる父と母は、いまたっぷりとした物語を湛えて私たちの前に立っている。それはそのまま、私たちそれぞれの父母の姿に重なっていく。

家族をめぐって 2

田原敦子著
『転がる石はダイヤモンド』・評(第三文明社)
―「図書新聞」掲載

 あの田原総一朗の娘さんがテレビ朝日の「世界の車窓から」のプロデューサーであることを本書で初めて知った。田原総一郎のテレビのイメージからして……とちょっと構えて読み始めたのだが、肩の力の抜けたとても気持ちのいいエッセイ集だった。
 生き馬の目を抜くようなマスコミ界にあって、こんなふうに柔らかく自分をキープしながら、仕事や人間関係を深めてきた人はそんなにいないのではないかと思う。
 父、田原総一郎が好んで色紙に書いたと言う言葉、「しなやかに、したたかに」は、まさしく著者の生き方そのもののようにも思える。 
 何しろ、著者は「第一章父のこと」でのっけから、父の恋人について語りはじめるのだ。 
 私は未読だが、田原の『私たちの愛』は、ダブル不倫の末の恋の成就を描いた本として、かなりセンセーショナルな話題を呼んだ。著者に言わせると、「子供の頃から、何となく思っていた。『きっとパパには、ママの他にも好きな人がいる……』私の父は、本当に隠し事のできない人だ。自分の幼い娘からも、恋をしていることを見抜かれていたのだから」
 自分たちの恋愛が家族にはばれていないと思い込んでいたらしい父がほほえましい、愛すべき存在として描かれていく。この描写は少しも嫌味がない。寂しさに打ちのめされた日々もあったにちがいないが、「今の私には、母親が二人いる。一人は亡くなった私の産みの親で、もう一人が今の母だ。父が愛のメッセージを捧げた節子さんが、時は流れて、今や私の母となったのだ」とまで記すのだ。
 母親が亡くなって6年後、著者が結婚したあとで父と節子さんは再婚したのだから、何も母と呼ぶ必要もないように第三者には思われるのだが、あえて、「私の母となった」と記すところが、私には著者のしなやかなやさしさとしてうつる。そのやさしさは、無防備な少年のような父と、父をあくまでも尊敬してやまなかった母の関係性の中で育まれた、実に貴重な人柄ではないかと思われる。
 こんなことが少女期から二十代にかけてあったにもかかわらず、「年を重ねるごとに、父との間柄が密になっていくようである」と書ける親子関係がその証である。
 彼女の小学生のころは、父が映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』を撮影した時期でもあった。この映画は桃井かおりのデビュー作としても知られるが、映画の出演者たちがよく遊びにきていたそうだ。そんなこともあって彼女は「とてもませていた」。高校生の頃から十歳以上も年上の人と付き合っていたのは、そんな家庭環境のせいもあったにちがいないと書かれている。
 いろいろな恋愛のエピソードがつづられる中で笑ってしまうのは、付き合っている恋人と連絡が取れなくなって「これは家で死んでいるにちがいない」と思うくだりだ。それが夜中だったので、父を起こして一緒に見に行ってくれるように頼んだというのだ。すると、父はよしわかったと言って、懐中電灯片手に一緒に確認に行ってくれたのだそうだ。「私の妄想に付き合ってくれた父には、今でも感謝している」。
 連絡が取れない→死んでいるにちがいない。この連想は、しかし、恋愛の一途さを示していて切ない。著者はしなくても「いい恋もある」と言うが、やはりそんな恋の積み重ねが今日の彼女を作り上げたのにちがいない。
 マスコミ界に入った著者がやはりなみでないなと思わせられるのは、お茶くみ時代から、「現在」を「収穫の時期」へ至る「耕す時期」として強く認識していたことだろう。こんな番組をつくりたいという企画書を週に1回ノルマのごとく、秘書の仕事をしながら上司に出し続けていたという。そんな積み重ねがあるから、やりたいことをやるには「要領」と「世渡り」も必須のスキルとさらっと言ってのけられるのだ。「したたかも使いよう」と言える背後に、著者が少女期の日々から学び取った一途さを見る。だからこそ、人間関係の栄枯盛衰にはびくともしない。
「いつも自分にとっての『好き』とは何か、それを追い求めて生きてきた」「自立とは『幸せに暮らす』ということだと思う」という著者のしなやかさに共感する。やっぱり、したたかとは程遠い、しなやかでやさしい人なのだと思う。

家族をめぐって 1

菅原哲男著
『家族の再生―ファミリーソーシャルワーカーの仕事』・評(言叢社)
―「図書新聞」掲載

 児童虐待の胸がつぶれるようなニュースに接するたびに、虐待を受けた子供たちはいったいどうやってその後の人生を生き抜いていくのだろうかと暗澹とした気持ちになる。
 しかし、そうした子どもたちを引き受ける児童養護施設の内実は、ほとんど知られていないに等しいだろう。
 本書は、激増する児童虐待を受けて、新たに児童養護施設に配置されることとなった「ファミリーソーシャルワーカー(家庭支援専門相談員)」に携わる若い人々のために書き下ろされた一書であるとともに、85年に「ひかりの子どもの家」を設立し、その施設長として長年児童たちにかかわってきた著者が語りかける渾身の「家族の再生」論である。
 未熟な若い親たちの犠牲となって施設に収容を余儀なくされる子どもたちは、現在の変容した家族、崩壊した家族関係の象徴とも言える存在だろう。ここで語られる「家族の再生」とは、同じ現在を生きる私たち自身が模索すべき「家族の未来」に他ならないのだ。 
 これまで保護・養護を必要とする子どもたちの家族とのかかわりは、もっぱら児童相談所の「専門にして独占的な業務であることが常識」であった。養護施設の職員が家族とコンタクトを取ったり、訪問したりすることは越権行為とみなされることもしばしばあったそうだ。それが、九七年の児童福祉法改正で、養護施設は収容児童の養護だけでなく、自立を支援するための家族関係の調整を行うことまでも守備範囲にすることが明文化された。それにともなって、全国の児童養護施設に、入所児童の家族との調整役をつとめるファミリーソーシャルワーカーを配置することが決定されたわけである。
 「中身についてはほとんど語られないままに配置が進められるにいたった」事情を思えば、それは児童虐待の激増で手一杯になった児童相談所の家族対応を、少しでも児童養護施設に肩代わりさせるための法改正であり新設であるとも受け取れる。
 長年、こうした縦割り行政と格闘しつつ、入所児童の家族に深くかかわりながら、児童の自立と家族への再統合を果たしていく道を模索し実践をしてきた著者たちにとってははなはだ笑止なことであろう。
 肝心なことは、子どもたちという「繭の中の『いのち』の可能性」をいかに豊かに開いていくか、どうしたら子どもたちの家族関係を回復させることができるか、その一点だけなのだ。制度を整備すればするほど、肝心な一点が霧散していくのは、介護の場所も同様である。
 「子育て以前の事態として、児童養護施設の児童で顕わなのは、その親たちの『消極的出産』によって産まれた子どもが多いことである。できてしまって、中絶のときも見過ごしてしまった。産むより仕方ないといった例もとても多い。これは、多くの若い男女関係にみられていて、いまや普遍化しつつある」(79P)「はじめての出産と子どもの養育は、誰でもひとしくはじめての経験なのだから、祖父母や近親に手助けを求めるか、産院その他で必死に学ぶほかないのだが、その手立てをもつ力も余裕も失っているのである」(80P)  
 崩壊した家族関係の犠牲者として養護施設にやってきた子どもたちが「家族」を取り戻すことは果たして可能なのだろうか。著者は次のように述べている。
 「児童養護施設の子どもたちにとっての家族像は深く傷つき、根底的な『受け止め』の欠如が心身を凍らせている。もし、この子たちに少しの為せることがあるとすれば、『血に等しい水』あるいは『血よりも濃い水』を差しだし、その『凍った血』を受け止め暖めて共に溶かしあうことのほかに何の手立てがありうるだろうか。(略)血と水とは『対』の受けとめと差しだしにおいて、等しく働く関係の力なのだ。家族はそこで他者に開かれている」(86―87p)
 したがって、ファミリーソーシャルワーカーとは「どの家族のうちにもある『家族の原型』をこの世界に対して証しだてるような媒介者である」と著者は定義する。そして、「子どもたちが、児童養護施設という一つのホームを『普遍化された家族の原型』として捉えることができるとすれば、その原型を心身に踏まえて、地の家族とのつながりを捉え直し、さらにはあたらな『家族』を創る歩みをたどれるであろう」(88p)と記す。
 本書のタイトル、『家族の再生』とはその長く厳しい道程そのものをさしているだろう。
本書の後半では「光のこどもの家」で取りくんできた家族関係再生へのさまざまな試みが語られていく。どんなに深い傷を受けても親を慕い、親をかばう子どもたちを見ていると、親を見切るという最後の結論にいたるまで、著者たちは家族の再統合を目指して家庭訪問を繰り返さずにはいられないのだ。著者たちの家庭訪問は家族の流離に伴って全国に及び、両親への呼びかけ、祖父母や兄弟への支援要請とあらゆる手段が尽くされていく。ここまでしても、いちど壊れた関係を完全に修復することは不可能なのだと思うと、著者たちの営みにただただ頭を下げるしかない。
 「普遍化された家族の原型」としての「ホーム」と、両親を含み子どもとかかわってくれる親族や地域の人々など可能な限りの人的資源の確保―この二つを両輪とすることなしには、子どもたちが成長して新しい家族をつくっていくことはできないだろう。
 家族崩壊の連鎖を断ち切るという願いは、不可能性の霧にからめとられていくようにしか見えないかもしれない。しかし、「血よりも濃い水」を希求しつづける無償の営みがあり、その人たちによって守られている場所が存在する限りにおいて、その願いは必ずかなえられると私は信じたい。

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プロフィール

梶葉子

Author:梶葉子
読書のよろこびはなにものにもかえがたいものです。
私を実に実に遠くまで連れ去って
みえない世界を垣間見させ
そこに吹く風や漂う香りを感じさせてくれる
書物に感謝しつつ
ささやかな感想をしたためていきま

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