2017-03

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〈本〉の彼方 10

ソーントン不破直子・著『鎌倉三猫物語』(春風社刊)  
牧野直樹・著『しょんぼり顔のモフモフ猫 ふーちゃんやけども』(左右社刊)
松井道男・著『外ネコ家族にオキテあり』(第三書館刊)
―「図書新聞」掲載

 取り上げる三冊の本の主人公はいずれも猫であるが、著者たちの猫へのアプローチはそれぞれまったく異なる。そしてどのルートを辿っても、読後は猫たちと出会い直したような思いでいっぱいになる。猫と暮らしている人もいない人も、猫がますます好きになる。
 『鎌倉三猫物語』は、鎌倉山に住む学者夫妻(いまは二人とも名誉教授)のもとにやってきた三匹の猫が、『吾輩は猫である』の吾輩のように、自らが語り手となってつづっていく鎌倉山の日々の物語である。
 初代の小町は、お友達の英文学者夫婦のお宅からもらわれてきた由緒正しい真っ白な美猫。自分のことは「わたし」、夫妻のことは「奥様、旦那様」と丁寧きわまりない。
 小町姉ちゃんのあとにやって来たのは、夫妻の長男が教鞭をとる縦国(たてこく)大で拾われたタマ吉、通称タマ。気さくな性格だから、「おいら」と「母ちゃん、父ちゃん」がよく似合う。もう一匹のみなみも縦国大キャンパス出身。構内でひき逃げされ死にかけていたところを縁あって、長男宅のマンション暮らしを経て鎌倉山へ。末っ子の甘えん坊には「あたし」と「お母さん、お父さん」がぴったり。
 小町はすごいハンターだ。大きなコジュケイだって捕まえて、見せにくる。そしてほめてもらったら、嘴を残してあとはすっかり食べてしまう。その一部始終がかなりリアルに描かれているが、たぶん小町本人が自分の口で語るからだろう、猫が生きるってそういうことだよなと自然に腑に落ちてくる。
 みなみは小鳥を生け捕りにすることはできないが、がんばってメジロの死骸をお母さんのもとに咥えてくる。夫妻はみなみのふるまいをいとおしく思ういっぽうで、死骸を見ながら、小鳥もリスやタヌキも、きっと山の中のどこかでひとりで死んでいるんだなと思いをはせる。猫たちとの暮しが自然に生き物の生き死にへと思いを向かわせるのだ。ご近所の犬や猫、小鳥やカラス、ハクビシンやもぐらや蛇……たっぷりの自然に囲まれた鎌倉山の猫たちの暮らしが羨ましくなってしまった。
 英文学者のお母さんが猫たちの行動を見て「リチュアル」と分析するところが面白い。お母さんに言わせれば「人間も動物もリチュアルな動物」なのだそうだ。「リチュアル」は辞書を引くと「儀式」と出て来るが、それは精一杯生きるということなのかもしれないと思った。しんぼうさん(南伸坊)の絵が物語に温かみを添えている。
 『外ネコ家族にオキテあり』は、著者の十一年間にわたる「外ネコ」たちとの交流の記録である。「どんな小さな生き物の歩みでも生命あるものの歩みは地球のかけがえのない歴史である。そうした意味で人間にほとんど関心をもたれない、いやどちらかといえば人間社会からは迷惑がられる場合が多い外ネコ家族の写真付き観察記録は大いに価値があるといえると思う」と著者は記す。室内飼いが一般的となった現在の猫との暮しからはなかなかうかがい知ることのできない、猫たちのサバイバル人生(猫生?)が展開していく。たっぷり収められた子猫たちの写真にも見入ってしまった。めったに家の中に入ってこない外ネコたちの写真の多くは、ガラス越しで切ない。が、そうしか生きられない猫たちである以上、それこそ寝食を投げ打って外ネコたちに寄り添ってきた著者に拍手を送りたい気持ちでいっぱいになった。
 著者はその後仕事の都合で関西に居を移し、いまは週一回は外ネコたちにエサをあげるために東京の家に戻る生活をしている。「これが私の今の人生の大きな任務であり楽しみだからだ」と著者は最後に語っている。外ネコ家族との記録は、そのまま著者の人生の記録にもなっていて、ユニークな著者の生き方の一端にも触れることができる。
 『しょんぼり顔のモフモフ猫ふーちゃんやけども』は、心なごむ写真集だ。ふーちゃんは迷子猫だったらしい。「たまたま出会った僕たち夫婦を頼ってくれた。ふしぎに人懐こい猫。色々あって家族になって、twitterに日々の暮らしぶりを載せていたら、それが写真集になってしまいました」とあるが、しょんぼり顔が何とも言えずチャーミングで、人気者になったのもうなずける。お見送りのビミョーな顔、帰宅したときのうれし顔、なで待ち顔、ジト目……ふーちゃん、愛されているんだねと思わず声をかけたくなった。
 「もうお出かけせえへんやろ? おれとおうちにおるんやな? な?」とか「どこ行ってたんや~! 知らんと寝てもうたやんか~!!」などなど、写真に添えられたキャプションも楽しい。「気が付けばふーちゃんと出会ってもう一年半です。最初はお客さんだったふーちゃんが、今は僕たちの帰りを毎日お出迎えしてくれる、楽しみに待っててくれる大切な家族になりました」とあるが、本当に猫は家族の一員だと思う。
 猫と暮らす一人として、もっとじっくり猫と付き合わないと一日一日がもったいないとつくづく思わせられた三冊だった。
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〈本〉の彼方 9

今井欣子、喜多さかえ、鶴﨑裕雄・著『連歌集 伊勢三吟』
(和泉書院刊)
―「図書新聞」掲載

 雅な芸術として中世から行われてきた「連歌」は、江戸期に入って俗のパワーにあふれた「俳諧の連歌」(俳諧または連句ともいう)にバトンタッチされていく。小西甚一氏の名著、『俳句の世界』の言葉を借りれば「俳諧は浴衣がけの連歌」であり、「連歌は、完全に古典的な感覚から成り立った藝術であり、おそろしく細かい神経を必要とする……磨きぬいた『雅』の世界」ということになる。俳諧の連歌、いわゆる連句は今日でも座の文芸として親しまれているが、連歌は一般的にはほとんど知られていないといっていいだろう。
 衰退した連歌の復興を願って、平成十四年、三重県伊勢市に三重連歌の会が発足した。本書は発足にかかわった三人による連歌集である。前田圭衛子氏が編集発行する連句誌『れぎおん』に連載された連歌三十二巻に番外の一巻を加えて一冊にまとめられている。
 三人で交互に詠んでいくのが「三吟」。一巻が四十四句からなる「世吉(よよし)連歌」で巻かれている。歌のやりとりはファックスで行われたそうだ。それぞれの巻の下段に随筆(留書)が置かれている。島津忠夫氏の序文に「下段の文章と合わせ読むことによって、座にあった人はもとより、座になかった人にもその雰囲気をいささかでも味わわせてくれることになる」と記されているとおり、留書を読むと四十四句の織りなす世界の奥行きがぐんと深まる。  
 著者の一人で連歌の復興に長年力を尽くしてきた鶴崎裕雄氏は、「連歌の楽しさは前句をいかに活かすか、そして自分の句がいかに活かされるかである」と記している。読みすすむにつれて、一人ではたぶん思いもつかないイメージの大胆な飛躍や響き合いといった付け合いのなんともいえない妙味に、しばし時を忘れた。

〈本〉の彼方 8

寄川条路 著『東山魁夷―ふたつの世界、ひとすじの道』
(ナカニシヤ出版刊)
―「図書新聞」掲載

 東山魁夷といえば、独特の青やエメラルドグリーンの作品がすぐ目に浮かぶ。本書の表紙にも緑が美しい『緑のハイデルベルグ』が使われている。しんと静まりかえっているのに、無数の声で満ちているようにも感じられる豊穣な世界……そんな作品の魅力の淵源に触れることができる一書である。
 本書は一九八三年にドイツの三都市で開かれた東山魁夷の展覧会を受けて、翌年一月に東京の日独友好協会で行われた魁夷の講演を適宜紹介しながら、著者が解説を加える形でまとめられている。読者は魁夷の肉声を聞くように、魁夷の創作に対する思いにふれることができる。
 北欧の風景を題材にした魁夷の幻想的な作品は私たちにも親しいが、二つの世界、東西を融合し昇華していく魁夷の創作活動のそもそもの出発点は、二十代のドイツ留学だったという。魁夷がフランスでもイタリアでもなくドイツを留学先に選んだのは、西欧美術史をじっくり学びたかったことに加えて、当時のドイツにはヨーロッパの貴重な絵画作品が数多く集まっていたからだと著者は解説している。若き日のドイツでの日々は魁夷の北の風土への傾斜を深め、のちに風景画家としてゆるぎない地位を確立していく基盤となっていったのに違いない。
 魁夷は聴衆を前に、日本画のルーツや、画材と技法についてもわかりやすく語っていく。日本画のルーツは、大和絵に端を発しているそうだ。明治の開国を経て、洋画の技法がどっと日本に流れ込んできたときに日本画が駆逐されなかったのは、大和絵以来の固有の伝統が日本人の心の中でしっかりと息づいていたからだろう。自然の鉱物を砕いて岩絵具をつくり、それを膠で溶いて絹布や和紙に描いていくプロセスそのものが、私たち日本人の自然との向き合い方、精神の源流をさかのぼる道筋に似ているような気がする。日本画の余白を生かした空間処理や陰影を描かずに奥行を感じさせる技法などには、日本の他の表現分野にも通底するものがある。
 日本画と洋画の境界がボーダーレスになって久しいが、魁夷は若い時期から自らの魂の赴くところに従って日本とヨーロッパ、この二つの世界を行き来し、日本画を広々とした場所へ連れ出した、いわば先駆者である。東西の文化の違いを深く掘り下げていくと、人間の魂が共振しあう、美をたたえた湖のようなものがあるのではないか。魁夷の美しい緑の世界は、その湖を象徴しているのかもしれない。

〈本〉の彼方 7

エレン・F・ブラウン、ジョン・ワイリー二世 著、近江美佐 訳
『世紀の名作はこうして作られた
――「風と共に去りぬ」の原稿発掘から空前の大ベストセラーへ、著者による著作権保護のための孤軍奮闘』
(発行・一灯舎、発売・オーム社)
―「図書新聞」掲載

 私が『風と共に去りぬ』に夢中になったのは中学生の頃だ。私だけではない。クラスの女子全員がアトランタやタラを心に刻みつけ、自分の生き方を貫くスカーレットの鮮烈な生き方に圧倒されていた。そしてレット派やアシュレー派にわかれて、あこがれの男性像を戦わせたりした。一九六〇年代初め、『風と共に去りぬ』は、少女期の通過儀礼のように私たちの目の前に置かれていた。
 こんなに面白い小説を書くマーガレット・ミッチェルがどうしてこれ一作だけしか残さなかったのか長い間不思議だったが、本書を読んでようやくその謎が解けた。『風と共に去りぬ』はミッチェルが一〇年ものエネルギーを注いでこの世に産み落とした、唯一無二のもの、生涯をかけて守りとおした子供のようなものだったのだ。
 本書は『風と共に去りぬ』の発刊七十五周年にあたって二〇一一年にエレン・F・ブラウン(フリーライター)とジョン・ワイリー二世(『風と共に去りぬ』の世界的なコレクター)によって出版された。原題は「Margaret Mitchell’s Gone With The Wind:A Bestseller’s Odyssey from Atlanta to Hollywood」である。今日累計販売数が三〇〇〇万部を超えるという超ベストセラーだけに、関連する書物は数知れない。にもかかわらず、原作がどのような経緯で発行部数を重ね、世界中で翻訳されてきたのかに的を絞った本はなかったのだそうだ。序文では「本書はミッチェルの伝記でなく、その著作の伝記であり、この小説の起源が生まれたミッチェルの幼少時代から、一つの文化現象にまで発展した現在までの歴史を描いたものである」と記されている。まさしく「ベストセラーのオデッセイ」である。
 著作権の法律が未整備だった時代にあって著作権を守ることが作者にとってなによりも大切だったことは容易に理解できるが、それにしてもここまでやれるものか。一九三六年五月の初版刊行に漕ぎつけるまでの出版社マクミラン社とのやりとりに始まり、出版後の海外での翻訳権、代理人との確執、盗作問題、再版をめぐる印税、映画化権、劇化権……難問が次々にミッチェル夫妻に襲い掛かる。多くの人物が二人の前に現れて、友好関係を結んだり、決裂したりとベストセラーをめぐる生々しい人間ドラマが展開されていく。
 作品を守り続けようとするミッチェルの意志はミッチェルが一九四九年八月に交通事故で不慮の死を遂げたのちも、夫マーシュ、兄スティーブンズ、アトランタの三人の弁護士、そして遺産管理会社へとリレーされて、今日もしっかりと継承されているそうだ。
 一点の妥協も許さない戦いの合間を縫うように、ミッチェルの手紙が引用されていて、ミッチェルの肉声を伝えている。「夫にほっぺをつねってと何度も頼んだので、もうつねってくれなくなりました。新人作家のほっぺに青あざがあってはいけない、理由を詮索され、事実を説明しなければならなくなるからね、ですって」―発売間近の頃のこんな愛らしい手紙に始まって、「ハッピー・エンドを熱望する声が多いのですが、あなたがお手紙で『スカーレットとレットがメラニーの亡骸のそばで和解の握手をする』ような展開にならなくて良かった、とおっしゃってくれて、どれほどうれしかったことでしょう」というファンレターへの心のこもった返事。海外著作権をめぐって確執のあった代理人のソーンダーズについては「契約書にサインをしておきながら、契約条件にしたがわず、またそれを何とも思っていないような人間は、わたしたちの周りには一人もいないのです」(マクミラン社、ブレッド社長への手紙)と手厳しい。
 日本では一九三八年に三笠書房から大久保康雄訳で出版されているが、本書によればそのときは海外での出版権が整っていなかった事情もあり、印税を払わずに出版していたらしい。本書には戦後、再度契約を結び直した経緯が詳しく書かれているが、こうした事情も『風と共に去りぬ』の長い航海の中の出来事として読むと一層興味深い。
 再版につぐ再版、映画化や劇化、続編とベストセラーの波乱の航海はつづいてきた。それもこれも作品の持つ魅力ゆえということになるのだろう。余談だが、私が一九九一年の冬に初めてアメリカを訪れたとき、遺産相続会社の許可を受けた初めての続編、アレクサンドラ・リプリーの『スカーレット』が書店の店頭を飾っていたのだった。思えば不思議な因縁である。後年、トニ・モリスンやアリス・ウォーカーの作品に惹かれていくようになったのも、もしかしたら『風と共に去りぬ』が私の心に種をまいておいてくれたからかもしれない。

〈本〉の彼方 6

現代英語文学研究会 編『〈記憶〉で読む英語文学――文化的記憶・トラウマ的記憶』
(開文社出版)
―「図書新聞」

 本書の副題は「文化的記憶・トラウマ的記憶」であるが、記憶は個々人の脳裏に刻まれたプライベートな領域のものであるばかり思っていた。「文化的記憶」とはどういうものなのだろうか。「はじめに」において、それは「ある集団がそれを介して自らの過去を選択的に構成して集合的アイデンティティを確立するための、組織化され、諸々のメディアによって客体化された共通の知識の蓄えというコンセプトである」と説明されている。
私たちは歴史認識や歴史記述が客観的な一枚岩で成り立っているものでないことを知っている。意図的な歪曲や改ざんの危機にさらされながらも人々に受け継がれていく共通の知識の蓄え、文化的記憶こそがいわゆる歴史にとって替わられるべきものなのかもしれない。
 本書は、文学作品の中から「文化的記憶」と「トラウマ的記憶」を取り出すことによって、個人的な記憶と集団的な記憶の相互作用を検証しようという試みである。
 これまでの小説の鑑賞や評論とはかなり異なる切り口の七つの論考が並んでいる。
 アメリカ文学における文化的記憶として取り上げられるのは、第一章メルヴィル『ビリー・バッド』の「後日談」、第二章フォークナーの『征服されざる人々』、イギリス文学から第三章『ハムレット』、第四章『フランケンシュタイン』、つづく第五章から第七章までは、アメリカ文学における心理的・トラウマ的記憶として、マーク・トウェインの未完作品「インディアンの中のハック・フィンとトム・ソーヤー」、フィッツジェラルドの『夜はやさし』、トニ・モリスンの『ビラヴィド』が俎上に載せられている。
 十七世紀に書かれた『ハムレット』において、奥田優子が文化的記憶として注目するのは「亡霊」である。当時の「エリザベス朝社会に刻み込まれた宗教的記憶」を、近年研究者の間で試みられてきた「旧教と新教の宗教対立」という観点よりも時代をさらに遡り、五世紀半ばに没したアウグスティヌスの教説をもとに「よみがえる死者の記憶」として読み解いていく。
 亡霊は日本的に言えば成仏できずにさまよっている死者の姿である。生者が死を恐れ、死者を畏怖して祀る行為は素朴な信仰に共通する根源的な有り様だろう。王の亡霊は古層の信仰の投影としてシェークスピアに呼び出されたとも言える。原罪という意識に逃れがたく縛りつけられた強固な一神教のヨーロッパ世界にあっては、「人は神の記憶を生きながら、同時にその記憶の一部を刻印のように心に宿した存在であると言いうる」と著者は述べる。たしかに亡霊も死者もそして生者もまた「無辺の神の記憶」の域を出ないということになるのかもしれないが、では神とは何か。死者の記憶の背後に広がる古い時代の土俗的な世界への通路を改めて垣間見せられた気がした。
 集団としての「トラウマ的記憶」から山下昇がアプローチを試みているのは、トニ・モリスンの『ビラヴィド』である。人間社会に深い傷跡を残す奴隷制度について、『ビラヴド』の文庫版あとがきで訳者の吉田廸子氏は、トニ・モリソンには「痛みに充ちた過去から目を逸らし、それを忘却に附そうとする今日のアメリカの風潮、モリスンの表現を使えば『全国規模の記憶喪失』への危惧がある」と述べている。
 『ビラヴィド』は、奴隷制度下に子どもを送り出すよりはと自分の産んだ赤ん坊を殺すという苦渋の選択をした奴隷のセサと彼女を取り巻く人々、そしてビラヴィド(本稿では上記のように表記)の織りなす物語である。ビラヴィドの正体について著者は5つの解釈を紹介しているが、その一つがビラヴィドを黒人の歴史の集合体とみなすものである。「ビラヴィドの語りには個人を超えた経験が組み込まれており、中間航路を行く奴隷船での奴隷たちの経験が(略)象徴的に描かれている」という解釈は、トラウマ的記憶を作家がその内奥でいかに引き受け、作品化していくかの端緒を語っている。
 著者はトニ・モリスンの語りの技法についても言及し、アフリカ的語りについて触れている。「アフリカ的宗教においては生者と死者の境界はあいまいであり、生者の生活の中に死者が生きている(侵入してくる)。またアフリカ的コミュニケーションは基本的に音声によるものであり、呼びかけと応答(略)である」「この小説の基本形はアフリカ的な呼びかけと応答の連続であり、一連の過程を経過していく中で感情的な浄化が達成される」「トラウマ的記憶を語りによって解放し、再生を遂げていくことが可能であることも本小説は豊かに描き出している」と結論づける。
 人は誰もが記憶を湛えた器として記憶の海を渡っていく……集合的アイデンティティはそんな無数の航路が時代や場所を超えて形づくる澪のようなものなのかもしれない。

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プロフィール

Author:梶葉子
読書のよろこびはなにものにもかえがたいものです。
私を実に実に遠くまで連れ去って
みえない世界を垣間見させ
そこに吹く風や漂う香りを感じさせてくれる
書物に感謝しつつ
ささやかな感想をしたためていきま

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