2017-10

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〈こども〉のなかへ 4

岸英光監修・石川尚子著
『子どもを伸ばす共育コーチング
―子どもの本音と行動を引き出すコミュニケーション術』・評(つげ書房新社)
―「図書新聞」掲載

 ビジネスの現場では「コーチング」がブームとなりつつあるのだそうだ。かんたんに言うと、経営者や管理職など部下をもって仕事をする人たちに、部下の眠っている能力を引き出す接し方、お互いに気持ちよく仕事をし高めあっていけるようなコミュニケーション術をコーチするということになるだろうか。 
 実務的なノウハウや、部下が上司に正しく評価してもらうためのノウハウではなく、上司が部下に接するためのヒューマンスキルをその道の専門家にコーチしてもらうという時代……人間社会は大変な隘路に踏み込んだものだと嘆息する。しかし、情報が氾濫し、価値観が多様化し、格差が拡大し、家族関係も変容しと、大激動の波に洗われているこの時代にあっては、自らが蓄えた経験や知識や考え方を、これまでのような固定化した組織感や上下関係に基いて展開していくだけでは、誰の心も開くことができないのもまた事実だ。
 メールによるコミュニケーションが日常化し、人間対人間の生身の会話が置き去りにされていく時代。困難な状況をうつ病だ、アスペルガー症候群だと病気として命名することで、本質的な問題はどんどん置きざりにされていく時代。
 こうした時代の激変の影響をもろに受けているのが、子どもたちだろう。
 本書はビジネスの世界におけるコーチングの概念を、対大人の世界ではなく、子どもたちと向き合う教育の現場に持ち込んだらどうなるかという、教育現場への殴り込みのような(そういっては著者に怒られるだろうが)一書である。
 学校や家庭でここに書かれているようなアプローチがなされていたら、おそらく今日のような陰惨なイジメや虐待、子どもたちの無気力・無関心といった事態はここまで悲惨な状況にはならなかったのではないかと思わせる。語り口は人間味にあふれ、実際の例がわかりやすく引かれているが、教育問題の本質に切り込んだ意欲的な内容になっている。
 子どもは大人の鏡だとよく言われるが、そのとおりだろう。子どもたちがやる気を失い、自ら考えることを放棄し、学校を出たのちの人生になんらの期待も持たず、働く気力をなくしているのは、子どものせいではない。親や教師や周りの大人たちが、そして、大人がつくっている世の中が、そう思わざるを得ないように仕向けているのだ。
「『夢』を語ると、『もっと現実的なことを考えなさい』と言う大人が実に多いようです。そうすると、本当は『夢』があるのに、それは言ってはいけないもの、言っても仕方のないものと子どもたちはとらえてしまうのです。だから『わからない』といってごまかします。」
 そこで「夢は叶うものと伝える」、子どもが一歩踏み出し行動を起し始めるために「否定形より肯定形で」「原因追求よりも解決構築」「心配よりも信頼」と、接し方を深めていく道筋がわかりやすく具体的に示されていく。
 無気力・無関心を打破するキーワードとして登場するのが、「存在承認」である。仮によい結果を出していなくても存在を肯定的に認める。「相手を責める前にまず受け入れる」「相手からのアプローチにはどんなつまらないことでも必ず返答する」……つまり、恐らく大多数の大人がふだん子どもに接しているやり方と逆のことをしてみるということだ。
次に出てくる言葉は「傾聴」。「相手の思っていることを一度否定しないで全部聞いてみよう」「子どもをもっと信じてみよう」……その目的は、「子どもが自分で考え始める」ように導いていくことにある。
「答えは一つしかない」「正しい答えは誰かから与えられるもの」……これを逆転させて「答えは一つじゃない」「答えは自分で編み出すもの」という発想を子どもたちに持ってもらうためには、大人が受験体制も含めた学校制度や教育のあり方そのものをもう一度根底から見直すしかないだろう。「存在承認」と「傾聴」は、それほど深い問題を孕んでいる。
「コーチングでは、『人の中にはもともと目標を達成するための資源がすべて備わっている。コーチングはそれをサポートする』という説明をします。ですから、相手の中に『ある』というのが前提になります。残念ながら『ある』ようには見えない、とコーチ側が感じてしまうと、相手もそう思ってしまいます。(略)『ある』という視点で一人ひとりの子どもを見つめた時、可能性は無限に広がっていくのです。」
 著者はそう語っているが、たとえ「コーチング」という言葉がなかったとしても、著者は相手を『ある』という視点で見つめ、向き合っていくことのできる人にちがいないと私は思う。
「自らの成長なくして、相手は決して心を開かないということも学びました。『可能性を秘めた存在として関わること』、これが『共に育つ』ということではないかと思っています。そして、『共に育つ』ところに教育の本当の価値があるのではないでしょうか。」
 こんなふうに熱く思い、接してくれる教師や親がいなかったら子どもたちの未来はないのだ。
 
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〈こども〉のなかへ 3

梓加依編著
『子どもたちの笑顔に出会いたい―読み聞かせ、ブックトークの魅力と実践』・評(素人社)
―「図書新聞」掲載

 本書には教師の「読み聞かせ」や「ブックトーク」への取り組みや親子の体験談が豊富に収録されている。
 「今、子どもたちへの読み聞かせや読書を進める方向に日本全体が動いています。『子どもの読書を推進する法』の施行や『子ども読書の日』の制定など、国を挙げて子どもの読書に力を入れだしました」「近年、子どもたちは語彙数が乏しくなり、文章を理解する力は低下し、学力も低下している傾向が明らかにされ、その一つの原因が『読書』をしないことであることが指摘されています。(中略)そうしたことから、読書を推進するということが行われるようになったわけです」(本書前書きより)
 もちろん、著者は読み聞かせや読書は法律までつくって「させられるものではない」ことを重々承知である。しかし、閉じこもりや不登校、いじめや自殺、殺人と深刻化していく事態を受け止めかねて、親も教師もすっかり自信を失ってしまっている時代だからこそ、あえて「読み聞かせ」と「ブックトーク」という?技法?で、事態を切り開いていこうとしているのにちがいない。
 私が「読み聞かせ」という言葉をしきりに耳にするようになったのは、3?4年前だっただろうか。「赤ちゃんのときから読み聞かせをするのが大事なんだって」というような会話を小耳にはさんだとき、ちょっと奇異な気がした。
 私自身、小さい頃に両親にさまざまな寝物語をしてもらった。擬音効果入りの風の又三郎や善太と三平の物語、桃太郎やカチカチ山の昔話に、現実以上のリアリティを感じて聞き入っていたひとときをいまでもありありと思い出す。あれほどの濃密な時間はなかったと思うと、子どもに自分の好きな物語を選んで読んで聞かせるということの大切さは、よくわかる。しかし、それはごく自然な子育ての一部分で、あえて「読み聞かせ」といったような用語を与える必要もないものだと思っていたからだ。
 本書に実践報告を寄せている教師たちも実はそれぞれが「読み聞かせ(昔はこういう呼び名はなかったが)」の素晴らしい原体験をもっていることがよくわかる。ただ、それらは深く心の奥底に仕舞い込まれて、日の目を見る機会が失われていた。
 本当はそのことこそが問題にされるべきなのではないだろうか。
 本離れ、読書離れというが、ケイタイによるメール、パソコンによるチャットなど読み書きの機会は、昔より格段に増えているのだ。生まれたときからテレビがあるという現実。言葉の溢れかえった状況の中で、子どもを「本」のある場所に取り戻す試みとは、実は、人間関係の結び直し、という意味でこそ有効なのだと思われる。
 生身の人間離れがすすみ、一対一の生身の人間関係をうまく結べなくなってさ迷う子どもたちを、果たして、本を媒介にして「肉声」の持つパワーに、生きた人間同士の交わりの場所に連れ戻すことはできるだろうか。
 「(読み聞かせやブックトークを通じて・筆者注)まず『子どもたちを知る』ことがとても大事なことです」「読み聞かせやブックトークをする時は(中略)先生の『人間』を出して子どもと関わってみてください」
 著者のこんな呼びかけは、痛々しい教育現場の実態を逆に教えてくれる。
 あらかじめ傷ついて生まれてきたといってもいいような現代の子どもたちに、「肉声」がしっかりと届けられるためには、まず大人の側の、一冊の本を手にとってその本に深く感動する心、その回復が求められている。
 両親の寝物語で育った私たちは、小学校や中学校で、書物に熱い愛情を寄せるセンセイに出会った。その数は決して多くなかったが、彼らの存在がその後、私たちを「文学の森」への誘うきっかけをつくってくれた。
 そんなセンセイが学校に必ず存在しているはずだと信じたい。

〈こども〉のなかへ 2

斎藤次郎・福尾野歩・増田喜昭 著
『子どものスイッチ―みんなもってるすてきなチャンネル』(雲母書房)
―「図書新聞」掲載

 「子ども時代」が自分の生にとってどんなに大きな意味をもっていたかということが、今ごろになってわかってくる。五十代って、そんな年代ではないだろうか。子育ての真っ只中の時期を過ぎ、仕事に突っ走っていた日々が一段落して気がつけば、道も半ばをとっくにすぎて、午後の陽が傾いている。
 そこで、ふっと立ち止まって振り返ってみるのだ。自分が育った家、親、兄弟、親戚、近所の人、町、飼っていた犬や猫、木々の匂い、川の音……ああ、それが私だったんだ。過去の一こま一こまが経糸、横糸となって織り成された一枚の布、それが自分であって、それ以上でもそれ以下でもないことが、いまならわかる。そのどれがちがっていても、私は私ではなかったと思うと、過去のかけがえのなさがしみじみと感じられる。
 そんなことを思ったのも本書を読んで、私の「子どものスイッチ」が入ったからだろう。「子どものスイッチというのは、自分の中の子どもをよびさます魔法の仕掛けのことだ」と著者の一人、斎藤次郎さんはいう。だから何がおこるというわけでもないのに、ふと立ち止まったら、あたりの景色がとても懐かしく見えてくる。忘れていた子ども時代のちょっとした思い出がどんどん甦ってきて、なんだかうれしくなってくる。
 本書に登場する三人のおじさんは、そんな自らの「子ども時代」のかけがえのなさをエネルギーにして、現代の子どもたちが少しでもすてきな子どもの時間を生きられるようにと行動してきた、いまもバリバリ現役の少年である。
●斎藤次郎…子ども研究の第一人者で子ども応援マガジン「子どもプラス」の編集代表。
●福尾野歩…トラや帽子店というバンドを率いて各地を回り「人と人をつなぐ旅芸人」として保育者のセミナーをつづけてきた人。
●増田喜昭……子どもの本専門店「メリーゴーラウンド」を起点に子どもが本と出会う場づくりや子どもの遊び場づくりをしてきた人。   
 三人の多彩な活動については、本書(二泊三日の三人の合宿でのやりとりで構成されている)をじっくり読んでいただくとして、三人とも兄弟が多くて、末っ子で、つらい記憶や切ない思い出も含めて、子ども時代にたっぷりと愛情を注がれたことが、彼らの現在の行動力の源を形づくっているといっていいだろう。
 子ども時代に、大人になって一人で生きていけるだけの心の垣根をしっかりと築けるかどうかは、いたって単純で、「愛情をたっぷり注がれる」――この一点だけにかかっているといってもいいのだろうと私は思う。
 それさえあれば、子どもは安心して飛びまわれるし、怒られて少々いじけてもきっと立ち直れるし、やがては颯爽として巣立っていける。逆にその手ごたえを、子ども時代にしっかりと持っていないと、大人になってからつらい。現代という子ども受難時代に意志的に子どもと接することはさらにむずかしい。
 でも、おじさんたちは、その手ごたえは誰にでもあるのだよと言っているように思われる。自分の中に埋もれている「子ども時代」を掘り起しさえすれば、いま目の前にいる子どもと必ずや深く熱く渉りあえると。
 次郎さんは管理教育の強化されている現状を「学校教育はどうしようもないという世論をバックに、新しい道徳再武装が始まり、それはナショナリズムと結びついてきた。そしていま、『こころのノート』による心の管理が本格化し、教育基本法の改定(僕から見れば改悪)が日程に上っている。本当にあやういところにきているのをひしひしと感じています」と述べるいっぽうで、老人と童の「老童運動」をすすめようとしているらしい。「僕はぜひ子どもと年寄りの新しいジョイントをつくりたいと思っているの」「(略)老人の問題を視野に入れることが、子どもの問題を見直すきっかけになるんじゃないか、また、この両者がつながることで、『働きざかり派』の効率優先主義に歯止めをかけることができるんじゃないかと、そんなふうに考えているわけ」
 吉本隆明さんが「大学教授は定年になったら小学校の先生になるのがいい」、「老人ホームは幼稚園の隣につくるのがいい」と書いていたけれど、それに通ずるものがある。そんなジョイントができたら、年を取ることはすごくたのしみになってくる。
 学校教育の現場が、こうした在野の人々との交流によって変わっていくこともきっとあるだろうと期待したい。 
 「子どもとともに暮らすことの意味を深く掘り下げ、そうして得られる幸せをひとりでも多くの人たちと共有したい」そんな著者たちの思いは、私たちの共通する思いであることに変わりはない。


〈こども〉のなかへ 1

伊藤文人・作文 やたみほ・ニット絵
『さかさもさかさ』・評(出窓社)
―「図書新聞」掲載

 こんな世界があったんだ。思わず吹き出してしまう楽しい絵本だ。
 著者の伊藤文人さんは、トリックアートの世界では知る人ぞ知る存在で、「日本のエッシャー」と呼ばれているそうだ。なるほど、「月夜に夢見るふくろう」をひっくりかえすと「丸太を背負った牛のおじさん」になってしまうのだから、一瞬、唖然。そして次の瞬間、「どうして牛が丸太を背負ってるの」って笑ってしまう。
 その絵がまた心和む。毛糸で編んだニット絵なのである。出てくる動物やおじさんたちが、なんともユーモラスなのは、このニットの編地のぬくもりのせいにちがいない。ニット絵を担当しているのはやたみほさんという若いアニメーション作家だ。絵を編みこんだニットのセーターは見たことがあるけれど、こちらは棒針編みあり、かぎ針編みあり、アップリケあり……さながらニットのコラージュである。
 さかさ絵のアイディアは伊藤さんが出すのだろうが、きっとやたさんもニットで表現するのがとても楽しかったに違いない。どの絵からも楽しさばかりが伝わってくる。
 私たちがだまし絵やさかさ絵に惹かれるのは、きっと、日常の視覚世界に息苦しさを感じているからなんだろう。四角いものは四角いままに、丸いりんごは丸くしか見えない日々を送っているある日、平面の額縁から少女が飛び出してきたり、手にとって触れられそうな果物が描かれていたりするとびっくりする。人間の視覚ってだまされやすいんだなあと思うとともに、ある枷をはずしてもらったようなうれしさも残る。だから心惹かれる。
 無数の点をじっと見つめていると、ある瞬間に、ぐっと立体的な事物が浮かび上がってくる絵ばかりを集めた本も人気である。これだって、ふっと目のピントをゆるませることで異世界をのぞきこむ体験が新鮮なのだと思う。
 同じ絵でも人によって全然違ったものに見える不思議さは、ロールシャッハテストで精神分析にも使われる。見るという行為は、なかなか奥深いのだ。
「さかさもさかさ」は、そんな視覚の不思議さを温かいユーモアでくるんで表現した絵本である。私たちはただ逆さにして、「なんで水に膝まで入った猫が、パンを加えた馬になるの?」って、その奇想天外さに笑い転げればいいのだ。さかさにすれば誰だってもう一つの絵に出会えるはずだ。よほど頭が固い人でないかぎり。
 1枚のさかさ絵に2つのお話がついている。それぞれ英訳つき。親子で家族で、1冊で何度も楽しめる。
 

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プロフィール

梶葉子

Author:梶葉子
読書のよろこびはなにものにもかえがたいものです。
私を実に実に遠くまで連れ去って
みえない世界を垣間見させ
そこに吹く風や漂う香りを感じさせてくれる
書物に感謝しつつ
ささやかな感想をしたためていきま

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