2017-08

旅・紀行から 2

土井清美 著『途上と目的地――スペイン・サンティアゴ徒歩巡礼路旅の民族誌』(春風社刊)
―『図書新聞』掲載

 「巡礼」という言葉には単なる旅とは異なる、深い響きを感じる。大切な存在を訪ねてひたすら山野をさすらう。もちろん、徒歩である。足裏で大地を感じることは巡礼には欠かせない。道中の苦難こそが大切な存在をより純化するからだ。さすらうこと自体に意味があるのだ。無宗教でありながら、私が小川国夫の『ヨーロッパ古寺巡礼』(一九七六年刊)や高橋たか子の『巡礼地に立つ』(二〇〇四年刊)などを愛読していたのも、そんな思いを重ねていたからだろう。巡礼は人の心の古層に宿る願望のようなものなのかもしれない。
 本書はエルサレム、ローマと並ぶ世界三大聖地の一つ、サンティアゴ・デ・コンポステラを目指してカミーノと呼ばれるパリを起点に五百キロの道を徒歩で歩きつづける巡礼者たちに焦点をあてた「旅の民族誌」である。聖地巡礼をフィールドワークのテーマにする場合、聖性やキリスト教とはなにかといった宗教の問題は避けて通れないのではないかと思ったのだが、著者は「超越的なものを最初から前提とすることを避けたい」とし、巡礼を「旅と宗教的実践の両方を含む意味において用いることにする」と断っている。私はそのことに逆に興味をおぼえた。宗教的動機は聖地巡礼を試みる人々にとって程度の差こそあれ、現在でも決して無視することのできない要素だと思う。しかし、それを研究の前面に出しすぎることで零れ落ちてしまうこともまたあるのに違いない。さらに言えば、宗教とは縁遠い人間でも漂泊への思いにかられることは多々ある。私たちのそんな思いを凝縮した形で実践してくれている人々が今日の巡礼者であると言えるのかもしれない。
 著者はグッツォーニの「住まいつつさすらうこと」という視点を手がかりに、サンティアゴ徒歩巡礼を「途上」という様態として捉えようと試みる。
 「徒歩の旅とは(……)移り変っていく周囲の景色が自分の活動にどのような意味や価値をもつのかよくわからぬまま手探りしながら進むのに似ている。(……)そこで経験される、あたりにある事物の間を縫って行く動きの限定性と未知の世界に開かれている開放性が共存する感覚は(……)野原や坂道などで地平線を目にする際に誰もが経験的に知るところである」と述べる著者は、「土地との直接的で具体的な結びつき」を肉体的な限界を通じて味わうとする人々を対象に、彼らと「展望を共有する」ことを通じて、巡礼の諸相に分け入っていく。「調査対象となる人々の活動リズムをとそれにともなう風景の立ち現われ方を共有する」ために、〇七年~一二年にかけて、巡礼者とともにのべ何百キロも巡礼路を歩き、巡礼者用宿泊施設アルベルゲでボランティアでお世話係も務める。本書はそのフィールドワークの結晶である。
 第1章サンチャゴ巡礼の概要につづいて、第2章から巡礼者たちへのフィールドワークが展開していく。要所要所に巡礼者たちから寄せられた日記が事例として差し入れられているので、旅日記を読むような愉しみもある。
 宗教性をことさら前面に出すことなく展開されている論考ではあるが、読み終えたいま、目的地をいただいて歩きつづける営為、「途上」こそが実はひとつの信仰のありようなのではないかと私には思われる。サンティアゴの大聖堂が多くの巡礼者にとってアンチクライマックスとして現れるのはそのことを物語っているだろう。「住まいつつさすらう」ことの中にもそうした心性は反映しているはずだ。
 最終章で次の文章に出会った。
 「カミーノを歩くことで次々と現れる魅力に光をあてたのは、『遠くなってしまったフィールドへの憧憬』によるものかもしれない。遠いものへの憧れ、すなわちエキゾティシズムは、ある時から政治問題のなかに絡め取られ、近年の人類学的議論においては半ばタブー視される傾向がある。しかし遠いものへの憧れは、フィールドワークに基づく研究が誕生した頃から、フィールドを目指す者とその経験を回想して筆を執る者の双方を常に突き動かす原動力であったのであり、(……)『遠さ』というものが、ものごとを『近づける技術』の論理だけでは捉えきれない生のあり方を考える一つの重要な鍵になると私は考えている」。
 レヴィ・ストロースの時代から時は流れ、旅や徒歩といった日常的な営為にまで文化人類学のフィールドは広がっているのかと驚いたが、「遠いものへの憧れ」が若い著者の原動力でもあると知ってうれしかった。そして山椒大夫に出てくる安寿と厨子王の苦難の旅から四国八十八か所のお遍路さん、伊勢詣や富士講など、日本の巡礼についても思いは広がっていった。
スポンサーサイト

旅・紀行から 1

文化庁編
『わたしの旅一〇〇選』・評(ぎょうせい)
―「図書新聞」掲載

 本書は二〇〇五年八月に文化庁が公募した「わたしの旅?日本の歴史と文化をたずねて」に応募された786件の旅プランをまとめた一冊である。一〇〇選に選ばれた大賞1プラン、特別賞9プランの詳細ほか、全応募作品のコース一覧、立松和平氏や平岩弓枝氏など審査員9名のエッセイも併載されていて、創意あふれる旅の指南書に仕上がっている。
 河合隼雄(前文化庁長官)氏の「刊行によせて」を読むと、「『日本人はあんがい自分の国のことを知らない』『日本の歴史や文化はなかなか面白いのに、それをまったく知らず、海外旅行に熱中したりする』。こんなことを、小泉総理と話し合っているうちに、日本人が日本の歴史と文化をたずねる旅をもっとすればよいのに、ということになり」、公募に発展したとある。「観光ということがどうしても表面的になるのが残念で、私は『文化観光のすすめ』とか『観光の深化』などという雑文を書いたりして、単なる観光をこえた旅を推奨してきた」という河合氏の意見にわが意を得たりという人も多いのではないだろうか。
 昨年夏、久々に母と妹と三人で瀬戸内に出かけた。いつもは人任せの旅プランを、宿の手配から電車の乗り継ぎまで一人でプランニングした。もし行ってみて電車が来なかったらどうしよう。旅館が予想とちがっていたら……と不安は尽きなかったが、電車と船を乗り継いで最初の目的地、宮島に着いたときは「ちゃんと乗り継げた!」と感動した。自分で立てたプランが現実になったときのインパクトは、お膳立ての整ったパックツアーとはひと味もふた味もちがうものである。二泊三日とはいえ、プランニングにはかなりのエネルギーを要した。それだけに、現地で想定外のことが起ったときもかえって新鮮で、そんな予想外の出来事のほうが印象に残っている。
 私の場合は宮島と尾道に行ってみたい。あの旅館に母と妹を連れて行きたい……そんな単純な思いつきだけだったが、それをもう一歩進めて、もっと「テーマ」をはっきりさせた旅を計画できたら、さらに旅の楽しみは深まるだろう。地方自治体の財政破綻がさまざまに取りざたされているが、地方財源として、箱物や従来のパターンに頼らない、「観光の深化」がもっと見直されてしかるべきではないだろうか。
 さて、おそらく旅の達人や滅法旅好きな人たちが応募したのであろうから、きっとユニークなプランが満載だろうとワクワクしながら本書をひもといた。
 大賞は「“Japan”を訪ねる旅」と銘打たれた菅野淳一氏のプランである。英語では「漆器」を“Japan”という。「日本の歴史と文化をたずねる」というテーマに、真っ向から「Japan=漆器」をぶつけてきたところなど、実に斬新である。プランは十泊十一日、訪問先も沖縄から石川県までの6都府県と壮大な旅だが、菅野氏は「イギリスに訪問した折、お土産に漆器のスプーンを持参したところ大変喜ばれ、『漆器こそがまさに典型的な日本文化である』と言われたことがある」そうで、それがこのプランのきっかけになったと記されている。旅の対象者には漆器関連事業者をあげておられるが、“Japan”に触れる旅は一般の旅好きにとっても十分に魅力的である。
 特別賞には「旧石器時代を体験する旅―オホーツクの古代遺跡を訪ねて」(北海道)「ひな街道を行く」(山形県・新潟県)「二〇世紀初頭、外国人建築家が見た日本をめぐる旅」(群馬県・東京都ほか)など、ユニークで面白そうなプランが目白押しだ。
 わが郷里、秋田はどうかと頁を繰っていったら、あった、あった。「見どころ満載 多彩で味な、秋田の魅力、再発見!」(江口智子)……タイトルからしてうれしいではないか。
 江口氏によれば「実際に行った秋田旅行があまりにすばらしく、大満足の旅だったので、この感動を一人でも多くの人に味わってもらいたいと思い、このプランを作成した。また、『秋田旅行で四泊五日』ということに、たいていの人がけげんな反応をするが、四泊五日では不十分なくらい、秋田の魅力がふんだんにあることを示した」とある。秋田県人を代表してお礼を言いたいくらいだ。
 どんな地方にもそんな魅力がたくさんあるはず。本書を読んでいるうちに、しきりに旅心を誘われた。「日本を知る」ことは「自分を知る」ことでもある。さまざまな出会いがさらなる関心を呼び起こしてくれるだろう。まずは行動を起こさなくては!

«  | HOME |  »

プロフィール

梶葉子

Author:梶葉子
読書のよろこびはなにものにもかえがたいものです。
私を実に実に遠くまで連れ去って
みえない世界を垣間見させ
そこに吹く風や漂う香りを感じさせてくれる
書物に感謝しつつ
ささやかな感想をしたためていきま

最近の記事

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する