2017-03

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〈信〉ということ 3

英 隆一郎 著『イエスに出会った女性たち』(女子パウロ会)
―「図書新聞」掲載

 キリスト教の信仰者は「イエスに出会う」という経験をして、その出会いを契機に信仰を深めていくのにちがいない。神の受肉した姿がイエスという男性となって地上に現れた以上、イエスとの出会いをより直裁に根源的に受け止めることができるのは女性だろう。中世のシスターたちが神の嫁として神に忠誠を誓うのは自然の流れである。
 欧米ではキリスト教をフェミニズムの視点から解読する試みがさかんに行われているそうだが、カトリックの司祭である著者はそのような視座も射程に入れつつ、イエスと女性のかかわりを通じて信仰の内奥へと分け入る。
1章は「神の母・マリア 決断した者の強さ」。処女懐胎はフェミニストの視点に立てば、父なる神が処女マリアに強制的に性的な介入をした象徴的な事象ということになるわけだが、著者は「このような解釈の裏には長い間、女性が『子どもを産む機械』(略)としてしか認められていなかった差別の歴史があること」を踏まえた上で、「この身に成りますように」というマリアの言葉を「自由決断の表現」と解釈する。男性性と女性性が拮抗する地点から「信」の世界はスタートするという証左として処女懐胎はあるのかもしれない。
 8章は有名なマルタとマリアの姉妹の話。イエスの足元でひたすら教えを聞くマリアとイエスの食事をつくっていて教えを聞けないマルタ。イエスは「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言う。著者は「まず驚くのは、イエスの自由な発想である」とイエスの態度に言及する。「イエスは女性の役割をマルタのような世話係に限定してない。むしろ、マルタよりもマリアの選択をより良いと評価している。女性を既存の役割に押し込めることなく、自由な人格としてかかわっておられるイエスの態度には驚かされる。(略)イエスを前にして、既存の社会的役割や地位はとくに大きな意味はない。イエスとどのようにかかわるかが問われているのである」としめくくる。この箇所はイエスが差別社会への起爆剤として存在しているとも読める。ここでもイエスに触れられるか否かは対峙する女性の意志に委ねられていることは記憶しておいていいだろう。
 イエスに出会った女性たちは姦通罪を犯した女、売春婦、貧しい未亡人……というふうに社会からはじき出された存在だった。だからこそ逡巡をかなぐり捨ててイエスに触れることができたのだ。「神」(のようなものの存在)に出会うためには既成概念を捨て去って自分の意志で求めるものに向かい合うこと。イエスと女性たちとの出会いは、まず第一にそのことを伝えるために置かれているのだろう。
 各章の末尾に信仰のあり方を見つめ直す「ふりかえりのヒント」が添えられている。キリスト教の信仰者でなくても、立ち止まってふりかえる時間は必要だと感じさせられた。


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〈信〉ということ 2

ヘンリ・M・J・ナウウェン著 宮沢邦子訳
『いのちのしるし―心の奥の愛の声』・評(女子パウロ会)
―「図書新聞」掲載

 著者のナウウェン神父には50冊以上の著作があり、邦訳も多いということだが、今年、『最後の日記』(本紙6月8日号に書評掲載)につづいて邦訳されたのがこの二著である。
 これらに接するまでは、私にとってキリスト教といえば、高橋たか子の著作を通じて垣間見た世界がすべてであったといえる。ジイドやモーリヤック、ジュリアン・グリーン、遠藤周作、大原富枝などのキリスト教作家の小説作品も彼女の存在がなければ、手にすることはなかっただろう。
 高橋たか子への関心は、「内部の海」への飽くなき遡及、その道筋への共感としてやってきた。一時、彼女が小説家であることをやめ、「これからの自分の著作は霊的著作である」と記したとき、「霊的」ということの真の意味を知りたいと切実に思ったものだ。 
 キリスト者でない私にとって、それは到底理解できない世界であるいっぽうで、宗教というジャンルを必要としない無辺の世界の中で魂が自ずから感じとらざるを得ないある「存在」への関心をかきたてる。
 私はなぜこの星のこの国に生れ落ちたのか。私はどこから来てどこにいくのか。その道筋は何につながっているのか。人との出会いや別れには偶然以上のどんな意味があるのか……人間の脳が見せる幻影であるに過ぎないとしても、私たちの遺伝子に刻み込まれた生命の記録が、黙示録のようにそれぞれのいのちの小部屋に置かれていることがふとざわめきのように心をよぎり、胸をつかれる瞬間があるにちがいない。生まれて死んでいくことの不思議は、数々の出会いと別れを重ねていく中で、ますます解き明かされない謎として、日常の裏側にぴったりとはりついてはがれない。
 こうした思いは、ある特定の宗教を信じるか信じないかということとはあまり関係がないはずだと思いながら読み進めた。
 86年に書かれた『いのちのしるし』は、著者が大学の教壇を去ってカナダのトロントにある「ラルシュ(箱船の意)」という知的障害をもつ人々の共同体に滞在しているときに書かれた。副題の「キリスト者の視点から見た親しさ、豊かさ、喜悦」が示すとおり、そこでの日々においてより豊かに深められた霊的生活からのメッセージである。
 キリスト者の言葉で語れば、人間関係の亀裂、貧困や暴力、権力支配、戦争といったもろもろに翻弄される私たちの現実が「恐れの家」の生活である。それに対峙されるのが「愛の家」。イエスにつながることで得られる親しさ、豊かさ、喜悦に満ちた生活である。「愛の家の親しさは、つねに弱い者との連帯に導く。無条件の愛でわたしたちを愛してくださる一人のかたの心に近しくなればなるだけ、あがなわれた人類の連帯のなかでお互い同士が親しくなっていくのである。」(56頁)「神の方法は弱さの方法である。福音の大きな知らせは、神が傷つきやすいものになったということである。そして、わたしたちの間で、実を結ぶものとなったことである」(76頁)……こうした記述に明らかなように、「弱者としての人間」を自覚し直視することで神に向かい合うことが一貫して説かれる。宗教をもっとも近く、そしてもっとも遠く感じるのがこの地点であろう。いずれにしてもキリスト教=宗教の存在することの本質がここでは語られている。
 いっぽう、『心の奥の愛の声』は87年12月?88年6月に記されたもので「精神的危機の中で一種の自己治療のために書きとめた内面の日記のようなものらしい」(訳者あとがき)。
 この時期、著者は「自分の信仰を虚しく感じ、(略)神に棄てられたと感じていた」「ようやく見つけた家の床が抜けたような気持ちだった」。これらのすべては「ある友情がとつぜん断ち切られたのが引き金となって起こったのだった」という。ラルシュに滞在して親しさ、豊かさ、喜悦について、喜びをもって記した著者が、一転してみせる懊悩の姿は、私にはむしろ好ましいものとして映った。
 これらの書物は癒しのための処方箋というよりも、キリスト者として主体的に生きている人の内面世界をたどることで、宗教とは無縁に生きている私に「宗教とは何か」「信仰とは何か」を突きつけているように思われた。

〈信〉ということ 1

ジェラルド・L・シッツァ?著 朝倉秀之訳
『愛する人を失うとき―暗闇からの生還』・評(教文館)
―「図書新聞」掲載

 生きているかぎり、あらゆる喪失が私たちを襲う。家族の死、離婚、病、失業……喪失を契機に世界が一変する。たとえ少しずつ元気になったように思えたとしても、もう前のようには生きられないことに気づいて愕然とする。「喪失からの回復」はありうるのか。
 アメリカの大学で宗教学と哲学を教えている著者は、三年前に交通事故で一度に母、妻、娘の三人を失った。本書はその苛酷な体験に基づいている。ここ数年、喪失をテーマにした著書がさまざまに出版されているが、本書の特長は、「喪失からの回復」の根幹に、著者の信ずるキリスト教の「神」がおかれていることだろう。著者はこの突然の喪失の前に打ちのめされながら神の存在を問い直し、やがてもっと深く神に出会う。私たちは本書を通して「神とは何か」「信仰とは何か」という問いの前に改めて立たされていることに気づく。
 十五章からなる本書は、著者の経験を下敷きに「もっとも大切なものを失ったとき、人はどう生きていけばいのか」「再び生の喜びを感じ取ることはできるのか」「できるとしたら、それはどういうプロセスを経て可能になりうるのか」という核心に、一枚一枚薄紙をはがすように周到に迫っていく。
 暗闇こそが光の存在を際立たせる。喪失の悲しみから逃げ出さず深い悲しみとともに生きることを通じて初めて魂は覚醒する。深い悲しみは「私たちに人生それ自体の不思議さに気づかせ、回りの世界に対する鋭い認識を与え、私たちに迫ってくる一瞬一瞬を心から感謝するようにさせる」(82頁)。この一瞬一瞬こそ「永遠の今」と呼ばれる「恵みの贈り物」である。「いくら苦痛に満ちているとしても、この時は、私たちが生き生きと神を知ることになる唯一の時」であることに、事故後三年という長い「暗闇」を経て、著者は初めて思い至る。
 「喪失によって、破壊される人は多い」(110頁)と著者は記す。喪失に苦しみ、復讐や自己憐憫にのたうちまわる苦闘の期間が過ぎたら、「こうした自暴自棄の感情にこのまま我が身をまかせるかどうかを決めなければならない」(113頁)。そこで、著者は、「選び」と「恵み」の二つのキーワードを提示する。私たちが神から受ける「恵み」はあらゆる瞬間瞬間にあるが、それを受けるためには私たちが自分の意志で行う「選び」が必要なのだ。「選び」は「信」といってもいいだろう。喪失によって人ははじめて「恵み」に気づき、「選び」の重要さを知る。
 「喪失したからといって、私たちは孤立して一人ぼっちだと感じる必要はない。喪失は私たちが一人で直面しなければならないただ一つの体験ではあるけれど、それはまた、私たちを共同体へと導くことのできる共通の体験である。喪失は破れの共同体を作り出すことができる。私たちは一人で喪失という暗闇に入らなければならないが、一度そこに入れば、私たちは一緒に人生を分かち合うことのできる他者を見出すことになる」(199頁)。  
 信仰をもたない私(たち)は、喪失に直面したとき自力で価値観の転換をはかり、喪失後の人生に再び参加して行かなくてならない。しかしもしその暗闇から生還できるとしたら、そのとき私たちもまた私たちなりの仕方で「神」に出会っているのかもしれないと思う。本書を読み終えた今、「神」は魂の救済という場所においては誰にとっても普遍的な存在であり、「信仰」は自然な魂の活動であるといえるような気がしてならないのだ。喪失に直面したとき、著者のような信仰をもっていなくても、私たちの生そのものが「神」とでも名づけたいある意志的存在のはからいであるという思いが誰にも去来するだろう。
 しかしそれにしても、と思う。彼らには「この地上のものを包む別のもっと大きな現実がある」のだ。死んだものたちは天国にいて「神の現臨の中に生きており、私が切に入りたいと願う現実の中に生きており、しかも、神の至福の時の中に生きている」(228頁)。
 死者たちが神と共に暮らすこうした「永遠の王国」を魂の基盤に据えて生きる人々の前に私はたたずむのみである。

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プロフィール

Author:梶葉子
読書のよろこびはなにものにもかえがたいものです。
私を実に実に遠くまで連れ去って
みえない世界を垣間見させ
そこに吹く風や漂う香りを感じさせてくれる
書物に感謝しつつ
ささやかな感想をしたためていきま

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