2006-05

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ジェンダーをめぐって 2

江種満子著
『わたしの身体・わたしの言葉―ジェンダーで読む日本近代文学』・評(翰林書房)
―「図書新聞」掲載

     
「フェミニズムが『セックス』に代わって『ジェンダー』という聞き慣れない用語を持ち込んだのは、一九七〇年代のことである。それ以来、性差をめぐる議論は、大きなパラダイム・チェンジを被ることになった」(上野千鶴子・『ジェンダーの社会学』所収「差異の政治学」)。そして、以来30年近くにわたって、セックスがジェンダーを規定するのか、それともジェンダーがセックスに先行するのか、いやいやジェンダーは一つである、それは境界なのだ、などと、さまざまな議論がつづけられてきた。しかし、いま周囲を見渡せば、結婚も出産も選択しない女性は増え、離婚も日常茶飯事、子育ては夫婦で協力し合い、出産後ただちに職場復帰をしてくる女性たちも大勢いる。現実はジェンダー論議をしのぐ勢いで激しく変化してきたように思われる。
本書の序論で著者が「ところがいまや、その『ジェンダー』でさえが鎮静化の傾向をみせている」と語ることと、こうした変化は密接にからまりあっているだろう。
「時あたかも、日本ではさまざまな意味で戦争が焦点となりつつある。ある方面からは、〈父〉を柱とする家族共同体の再建を叫ぶ声があがり、ジェンダーはこれを妨げるイデオロギーにほかならないと目され、あからさまなバックラッシュにさらされる事例もあるほどだ。(略)しかし、フェミニズムやジェンダーへの関心が鎮静化している現在の状況は、むしろフェミニズム批評/ジェンダー論の真価を問い、そしてジェンダーを組み替える好機として積極的に受けとめるべきであろう」
著者はこのように述べつつ、日本近代文学をジェンダーで読み解くという「テクスト論」を展開していく。
「終始心がけたことは、テクストの精読である。ここでいう<精読>とは(略)文学の自立性を信じて自閉的に文学作品に向かうことを意味するのではない。そうではなく、文学テクストを、歴史や社会や経済など人間がつくりだす広範な文化現象の一端ととらえ、その文学テクストに潜在するジェンダーの位相から、総体としての文化現象に批評を企てることを目指した読み解き、を意味している」
文学の自立性を信じることと、自閉的に文学作品に向かうこととは必ずしもイコールではないだろうが、それはさておき、著者は作品にたちあらわれる男女や語り手、作家のジェンダー意識へと分け入っていく。
取り上げられた「テクスト」は明治期の清水豊子・紫琴、樋口一葉にはじまり、与謝野晶子、青踏の女性たち、漱石、藤村、有島武郎、志賀直哉、伊藤野枝、神近市子、宮本百合子など多岐にわたる。
「かつて自然界のさなかに誕生した人間存在が、言葉をつくりだす前後の未分化な境界域を、手荒に単純化」することに著者は危惧を抱いている。したがって、もっと精緻にその未分化な境界域に分け入りたい。そこにこそ、この社会に網の目のように張り巡らされたジェンダーを本当の意味で無化していくエネルギーが孕まれているはずだ……そんなふうに感じているように思われる。
それは著者の言葉を借りれば「言葉以前・ジェンダー以前の不定形な<エロス>」とどう向かい合うのかということになるだろう。
そこでここでは『道草』の出産シーンについての個所を取り上げてみたい。受胎・出産はどんなにジェンダー意識が無化されようとも最後に残る女性性の問題であり、「ジェンダー以前の不定形な<エロス>」の根幹に関わると思うからだ。
『道草』の御住の出産の場面で主人公の健三は、産婆の到着を待たずに生まれてきた赤ん坊に狼狽し、でもこのままほっておいたら風邪を引くだろうと、赤子の上に綿をかぶせる。著者はこれを「読者は(必要なら、女の読者である私は、と限定してもよい)なによりも、分娩後の彼の対応の無策ぶりにたいして、彼が胎児の感触に感じる『気味の悪』さ以上に、寒々としたフェティッシュな『気味の悪』さを感じずにはいられないのも事実である。(略)頼りになるのは健三だけだという非常時にもかかわらず、なお健三を自制させる<男たるもの>という分別(ジェンダー)に縛られて、彼は何も見ようとはしない」
このように厳しく見据えている。いっぽう江藤淳は、講演「『道草』と『明暗』」で次のように語っている。
「だが、それにもかかわらず人間はある瞬間の交感というようなものを感じることもできる。それは、たとえば、子供をあやしている細君を、健三が脇でぼんやり見ているような瞬間におとずれる、あるやさしさの感覚といったようなものであります」
むろん、著者はこんな江藤淳の感受にもある種のジェンダー意識を感じ取ってしまうかもしれないが、やはりこの「あるやさしさの感覚」、すなわち<対幻想>という視点を抜きにしてジェンダーは語れないのではないだろうか。
「人間が男または女であるのは、ぼくらの言葉でいえば<対幻想>の場面においてだけであって、いわば家族内においてだけ、人間は男または女であるわけです」「シングル(単独者)になったときと、(略)共同社会のなかに入っていったときには、本質的には、人間は、人間だけであって、男または女ではないわけです」(『対幻想―n個の性をめぐって』)
この吉本隆明の言葉はいまも全く古びることなくジェンダー問題の本質をついていると私には思われる。
私たちが漱石の作品に感動するのは、漱石がこうした「男―女」と「人間」を混同することなく見事に描いているからだと思う。
著者は「言葉以前・ジェンダー以前の不定型な<エロス>の位相は、定型化を強いるジェンダーを解体するために、つねにふり返り、感じ直さなければならない基底である」と述べて本書を閉じているが、この不定型な<エロス>は<対幻想>とのかかわりの中でしか見えてこないことも確かである。
文学はあらゆる精読に耐えながら、その基底へと人間を誘うために私たちの前に置かれている。





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ジェンダーをめぐって 1

日韓「女性」共同歴史教材編纂委員会・編
『ジェンダーの視点からみる日韓近現代史』・評(梨の木舎)
―「図書新聞」掲載

戦後60年という節目は、戦後の日本が「置き去り」にしてきたさまざまな問題に改めて見直しを迫る区切りとなったが、日本軍「慰安婦」問題や、中国、朝鮮半島、樺太に置き去りにされた残留女性たちなど「ジェンダー」にからむ問題には、今もってなかなか光が当たらないもどかしさがある。
これまでも公教育の場で、日本の近現代の歴史、アジア侵略の実態をきちんと学ぶ時間の少ないことや教科書の記述の歪曲が指摘されつづけてきたが、そこにさらにジェンダーの視点を盛り込むことは、かぎりない困難にさらされているといえる。
「歴史認識をめぐって日韓の市民の間には深い溝があります。とりわけわたくしたち日本市民が近現代の日韓の歴史について基本的な事実をまずしっかりと知ることが大切だと思います」(編集を終えて、鈴木裕子)
「日本の相次ぐ歴史教科書歪曲問題に直面したことが契機となり、アジアの近現代史で起きた人権侵害問題のために研究し、運動してきた韓国と日本の女性研究者と活動家たちが女性の目から、また被害にあった人びとの立場にたって歴史を新たに捉えなおしてみたいと思った。そうしてみると韓国や日本、一国の側からのみの歴史的事実では実状を知ることが難しいということが分り、二カ国で起きたこととその接点を一つの『出来事』として編みなおしてみようという点で意見がほぼまとまった」(同、鄭鎮星)
こうして「ジェンダーの視点」から、しかも「日韓の女性たちが共同で」本書が制作されたことは画期的であろう。
日露戦争以後1945年の敗戦までの日本による過酷な朝鮮半島支配、戦後の朝鮮戦争によって引き起こされた半島の分断や、さらに米軍駐留の問題を「出来事として編みなおし」「女性の目から捉えなおす」とき、これまで描かれてきたどんな歴史よりいっそう鮮やかに「国家」なるものの実相が浮かび上がってくることに驚くばかりである。
日本においては天皇制と家父長制が分かちがたく結びついていたために、女性たちは二重の苦しみを強いられた。朝鮮の女性たちには植民地支配の重圧がそれに加わった。日本軍「慰安婦」の多くは朝鮮人であったことがそれを如実に語っている。
しかし、女性が一方的に被害者であったわけではないということも本書には明記されている。
太平洋戦争当時は「兵士を生み育てる母性」の称揚が学校教育の中でも徹底的に行われ、それを補完するかたちで多くの日本人女性が「直接、間接にわたって15年戦争・アジア太平洋戦争に加担・協力したことも事実であった」。国家の要請によってつくられた多くの女性団体が銃後の守りを積極的に担い、「家庭・社会から厭戦・反戦意識が顕在化することを抑える」ことに加担した。「平塚らいてうのような女性解放の先駆者でさえ、戦時下には彼女の母性主義は優生思想と結びつき、(略)天皇制幻想を補強し、天皇翼賛の思想や行動に向かった」。平塚らいてうばかりではない。与謝野晶子、林芙美子、吉屋信子、高群逸枝あるいは五島美代子や斉藤史らも同様であった。ジェンダーのはらむ本質的な問題の一つとして記憶にとどめられるべきだろう。
本書はそもそも日本軍「慰安婦」問題解決運動を通じて連帯してきた日韓の女性たちが共につくり上げたものであることもあって、「慰安婦」問題が本書の根底を貫く大きな本質的なテーマに据えられている。「慰安婦」問題には民族差別(=帝国主義的侵略)と性差別という、差別の両輪が浮き彫りにされていることからして当然であろう。
「慰安婦」問題は、戦後沖縄や韓国の米軍基地周辺の女性レイプ事件、あるいはまた妓生観光や今日のヨン様現象にまで尾を引いている。それは日本による強制連行が清算されないままに今日の北朝鮮の拉致問題を引き起こしていることと同様の構図である。日本が国家として「慰安婦」の事実を正式に認めて謝罪し補償することなく60年を経過したことを日本人として恥ずかく思うのは私ばかりではないだろう。
「女性国際戦犯法廷」にも多くの紙幅が割かれている。「『慰安婦』被害者に半世紀もの沈黙を強いてきた『恥』の概念を押しつけたのは『貞操』イデオロギーであり、社会に支配的なジェンダー偏向であった。東京裁判で裁かれなかったことや、サンフランシスコ講和条約締結時に話題にもならなかったのは、そこにジェンダー・バイヤスがあったからである」と記すいっぽう、「この『法廷』は、その権威を市民社会に由来するとし、ひとつの国の法、それが依拠する裁判を絶対化していないし、自らの出した「判決」を絶対化してはいない。『常に未完成で保留状態にある歴史的記録の一部である』とし、国家を超えて共有される価値、市民が法を創り出す未来へと開いている」と述べられている。
わたしたちはこうした本書の記述に真摯に向き合うべきだろう。
本書に書かれた歴史は、「国家」の犯罪性がジェンダーという形で吹き出したその歴史である。しかし、国家という枠にとらわれているかぎり、問題は常に先送りされていくだけだと思う。
だからこそ、「人種やジェンダーにまつわる差異がない世界を望むのではなく、人種やジェンダーが問題にならない世界、言いかえれば人種やジェンダーによって権力の階層秩序が決定されることのない世界、さまざまな差異が差異として自由に自らを表現するような世界」(ネグリ/ハート『マルチチュード』)を見通す視座というものも一つの活路となるはずだと思いたい。

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プロフィール

梶葉子

Author:梶葉子
読書のよろこびはなにものにもかえがたいものです。
私を実に実に遠くまで連れ去って
みえない世界を垣間見させ
そこに吹く風や漂う香りを感じさせてくれる
書物に感謝しつつ
ささやかな感想をしたためていきま

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