2006-06

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物語のなかへ 1

藤蔭道子著
『風景の中で』・評(龍書房)
―「図書新聞」掲載

 五十代に入ると、それまでとは「風景」ががらっと変わる。老いというものと初めて肉体的に実感として向かい合う時期といったらいいだろうか。とくに女性は閉経、更年期というあからさまな変化となって現れてくるだけに免れようもない。そして、死を否応でも射程に入れざるを得なくなる時期でもある。
 老いていく家族、巣立っていく家族。そして自分の心は十代、二十代のころと少しも変わってはいないのに、肉体だけが変貌していることに気づく。日々気づかされる。その変貌を、いまはまだ無残さや残酷さとして生々しく受け止めるしかない苦しい時期だ。
 本書のタイトルである『風景の中で』の「風景」とはそんな人生の午後の心象風景を指しているのにちがいない。
 若いときのこだわり、一途に思い描いていた未来……「私の夢はどこに消えたのでしょう」(『夢のゆくえ』)という主人公の表白は、後悔とはちがう。夢の果てとはこういうものだったのかと、私という体に刻まれた過去の刻印の一つ一つが、静かな驚きの声を上げているのだ。記憶の堆積、そのめぐり合わせの不思議さに、ただ、佇んでいるのである。 
 著者は1945年生まれ。納められた十八の短編の一つ一つに著者の佇む風景が色濃く描かれていて、私の心の底に小石のように沈んでいく。
 過去と出会う場所は第一に夜毎の夢の中である。「青い実」はアゲハチョウに変身した男が自分の目の中に住みつく話。「あさきゆめみし」はラーメン屋やうなぎ屋が夢の舞台。物を食べる営みの哀しさと男の孤独が際立つ。「夜咄」は楠の洞の中で語られる行方不明の父の話。大樹が深い慰謝となって作品を彩る。
 直接に夢が舞台装置となる作品ばかりではない。早朝に梯子に登ってする白木蓮の枝切り(「祝日」)、終電車の中で耳にする中年男性の仰げば尊し(「しんぎんぐ」)、真夜中の鶺鴒の飛翔など、切り取られた日常の一こまは、いずれも時間の裂け目から記憶のクレバスを覗き込むような読後感を残す。
 多くの作品に登場する女性主人公は作者を投影したものだろう。幼い頃、自分を置き去りにして去っていった父の存在が深い刺となってつきささったまま、その後の人間関係を大きく規定されて五十代も半ばに差し掛かった女性として描かれている。そして、どの作品にも「四季のうつろい」が細やかに描写されている。そのせいだろうか、「父に捨てられた」という過去が、まるで胎児の世界にまで遡るような深みで捉えられていると感じられる。
「展覧会の絵」は主人公の中学時代の担任だった美術教師の話だ。主人公が授業で父を思って絵葉書をもとに描いた大手町の絵とは、どんなものだったのだろうか。私は思わず本を閉じて本書の表紙の絵に見入ってしまった。それは雪の街角で、雪が騒音を吸い尽くしたような静けさが立ち込めている。街路樹にも車道に止められた車の上にもうっすらと雪が降り積もって胸がしめつけられるような懐かしさに満ちている。主人公が父を思って描いた大手町の絵、いや描きたかった絵は、きっとこんな絵だったのではないだろうか。
 十八編の最後に納められた「手相酒場」は集中もっとも長い作品であり、作者の力量がもっともよくうかがえる作品でもある。
 神楽坂の路地裏にその店はある。手相見を生業とする主人公は「手相は自分を知るための占い」と死んだ恋人から手相見の手ほどきをしてもらうときに教えられたのだった。  
 肉体の一部、手のひらに刻まれた線の行く筋かをたどる。それは体に刻まれた過去の記憶をたどることなのに、それによって未来が見えてくるとはなんと不思議なことだろう。  
 亡くなった恋人は、他人の手相を見るというよりも、たった一人の女性の手相を見ていた。主人公は他者の過去と自分の過去を重ね合わせながら、実は亡くなった恋人をたどっているのだった。死者こそが決して見ることの出来ない未来であるかのように。
 そして本書そのものが「手相酒場」のようなものなのだといまさらのように気づいたのだった。
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環境という視線 2

石 弘之著
『世界の森林破壊を追う
  緑と人の歴史と未来』・評(朝日新聞社) 
―「通販生活」掲載

 東南アジアあるいはアマゾンの熱帯雨林破壊の情報は断片的に読んでいたが、世界各地の森林破壊状況を過去から現在までリアルに捉えた本に初めて出合った。本書はジャーナリストとして研究者として、世界中の森を自分の目で見て回った石弘之さんによる「緑と人の歴史の洗い直し」の一書である。
 石さんは「人類の文明史は森林喪失の歴史であった」という。私はかつては緑と人とのうるわしい共存関係があり、それが産業革命以降の近代化や人口爆発の結果、森林破壊を引き起こしたと思ってきたので、頭をガツンとやられたような気がした。
 本書は「森林」をキーワードに書き進められた一種の文明論でもある。  
 中国、インド、マレーシア、ケニア、アメリカ、ブラジル、オーストラリア、ロシアなど大陸別に一一カ国の森林破壊の歴史と現状が克明にたどられている。植民地支配や今日もつづくその後遺症、先住民弾圧の諸相……森林破壊はこうした支配被支配の代償として生み出されたものだったのだと深く再認識させられる。 
 燃料として、木材やパルプとして、農地や牧地としてつねに破壊にさらされてきた森林はいまや洪水や旱魃を引き起こし、やがて塩害や砂漠化という悲惨な道すじをたどっている。
 「世界人口の二%にすぎない日本は、世界貿易のなかで丸太輸入の五割以上、木材加工品輸入の三割近くを占める世界一の熱帯木材大国だ。日本は『伐り逃げ』と非難を浴びるほど東南アジアの森林をむさぼってきた」という言葉が胸にこたえる。
 石さんは先進国に求められているのはなにはともあれ「消費抑制」だという。私にできることは、古紙のリサイクルが木材やパルプへの依存を減らすことにつながるはずだと信じてがんばるしかないのだろうか。
 

環境という視線 1

宮下正次著
『炭はいのちをも救う』・評(リベルタ出版)
―「図書新聞」掲載
 
 ここ数年、炭のパワーが注目されている。炭をやかんの水に入れておくと水がおいしくなる、ご飯を炊くときに入れるとおいしくなる、部屋の隅におくと空気が浄化されるなどなど。わが家でもマツカサやリンゴに炭の粉を吹きつけたオブジェをいただいて部屋に飾ってある。
しかし、その炭のパワーが森の再生と密接に結びついているのだということは、今回本書を読んで初めて知った。
 森が危ないということを自分の目で実感したのは3年ほど前の夏に郷里の秋田に帰省したときだった。墓参りのために車で由利本荘市までの日本海沿いを走ったのだが、沿道の防風林のマツがすっかり赤茶けていて、それが延々とつづいているのだ。その後も毎夏通るのだが、いっこうに回復の兆しがない。対策は立てられないのだろうかと気になってしかたがなかった。
 ところが、本書を読むと、日本各地の状況はさらに厳しさを増していて、針葉樹ばかりか広葉樹の枯れも始まってきたという。広葉樹林ではドングリが結実しにくくなったという報告も届いているそうだ。川もヘドロ化して、魚、とくにアユやワカサギは激減しているという。だから食料を失ったクマやシカなど山や森に住む動物たちが、里に下りて来ざるを得なくなっているのだ。 
森林はなによりもまず森に住む生き物たちのものだ。さらに水を保有する水源涵養機能や土砂の流出を防ぐ土壌の緊縛力など、人間の暮しがこうむっている恩恵ははかりしれない。森林浴など人間の心身に及ぼす影響も大きい。大切な森が失われていくということは、人間の暮しの基盤が損なわれていくということなのだ。
 これまでも森林破壊、河川汚染の原因と対策についていろいろな角度から語られてきたが、著者はこうした自然の異変は「酸性雨」であると言い切る。
 本書で明らかにされているように、これまで行政や学者たちは、たとえば松枯れの原因は「マツノガイセンチュウ」という害虫のせいだ、アユの激減は水が冷たいために起る冷水病だ、ワカサギの減少はエサになるプランクトンがいなくなったからだといったように、起っている事象に対して、個々に原因を探り対策を取るということに終始してきたという事実がある。各地方自治体どうしの連携、官と民の研究成果の分かち合いといった相互の関係性の希薄さなどが、今日、ここまでの悪化を招いてしまった大きな一因にちがいない。これは、いまあらゆる場面で噴き出している縦割り行政、縦割り医療、縦割り組織の悪弊と同じ図式であろう。
 著者は一見バラバラに見えるこうした自然異変の原因を、「酸性雨」というキーワードを中心にすえることで見事に読み解いていく。
これらの異変は長い年月にわたって酸性雨が降り注いだ結果、「酸性雨が土壌中の微生物を殺し続け、生命循環の輪を壊してきた」からだと言う。土中のバクテリアはPH七(中性)で最も活発に活動できるのだが、PH五以下ではもはや生きられない。それが、日本海側の豪雪地帯の森の土壌はPH三・六という強酸性を示しているところまであるそうだ。さらにこうした強烈な酸性雨は「土壌の中から猛毒のアルミニウムを溶かして、実を作るうえで大切なリンを奪って、実を結べない森を作ってきた」のだと言う。土から栄養をもらえなければ木は枯れていくしかない。
 酸性雨とは言うまでもなく、化石燃料の使いすぎや車の排気ガスなどによる大気汚染によって引き起こされたものであるが、まさか日本の森林にもここまでの被害が及んでいたとは。
そこで登場するのが「炭」である。
 「炭は溶け出した猛毒のアルミニウムイオンを吸着し、微生物に住みかを提供する。(略)枯れの広がるマツの根元に炭を入れてやると、マツは元気を取り戻してきた」「炭は古くて新しい素材。燃料としてのエネルギーから、生命維持の特効薬として生かす時代になってきた」
 著者は「炭パワー」の伝道師として、韓国や台湾、ドイツやアフリカにまで越境していく。関東森林局に長く勤め、森林を深く愛してきた著者だからこそ酸性雨と炭のパワーを結びつけることができたし、国境を越えた活動をすることもできるのだろう。
 本書によれば、枯れのすすむ森林に炭を撒きつづける「炭緑化運動」が各地に広がっているという。「これまでの薬による後追い策では、日本は森を失ってしまう。微生物との共生を考えた事前対策に変えなければならない」という著者に同感である。
 森林の手入れのために切られた間伐材を焼いて炭にする。その炭によって森自身が再生する……なんと見事な循環だろう。自然の偉大さを思わずに入られない。


家族をめぐって 1

菅原哲男著
『家族の再生―ファミリーソーシャルワーカーの仕事』・評(言叢社)
―「図書新聞」掲載

 児童虐待の胸がつぶれるようなニュースに接するたびに、虐待を受けた子供たちはいったいどうやってその後の人生を生き抜いていくのだろうかと暗澹とした気持ちになる。
 しかし、そうした子どもたちを引き受ける児童養護施設の内実は、ほとんど知られていないに等しいだろう。
 本書は、激増する児童虐待を受けて、新たに児童養護施設に配置されることとなった「ファミリーソーシャルワーカー(家庭支援専門相談員)」に携わる若い人々のために書き下ろされた一書であるとともに、85年に「ひかりの子どもの家」を設立し、その施設長として長年児童たちにかかわってきた著者が語りかける渾身の「家族の再生」論である。
 未熟な若い親たちの犠牲となって施設に収容を余儀なくされる子どもたちは、現在の変容した家族、崩壊した家族関係の象徴とも言える存在だろう。ここで語られる「家族の再生」とは、同じ現在を生きる私たち自身が模索すべき「家族の未来」に他ならないのだ。 
 これまで保護・養護を必要とする子どもたちの家族とのかかわりは、もっぱら児童相談所の「専門にして独占的な業務であることが常識」であった。養護施設の職員が家族とコンタクトを取ったり、訪問したりすることは越権行為とみなされることもしばしばあったそうだ。それが、九七年の児童福祉法改正で、養護施設は収容児童の養護だけでなく、自立を支援するための家族関係の調整を行うことまでも守備範囲にすることが明文化された。それにともなって、全国の児童養護施設に、入所児童の家族との調整役をつとめるファミリーソーシャルワーカーを配置することが決定されたわけである。
 「中身についてはほとんど語られないままに配置が進められるにいたった」事情を思えば、それは児童虐待の激増で手一杯になった児童相談所の家族対応を、少しでも児童養護施設に肩代わりさせるための法改正であり新設であるとも受け取れる。
 長年、こうした縦割り行政と格闘しつつ、入所児童の家族に深くかかわりながら、児童の自立と家族への再統合を果たしていく道を模索し実践をしてきた著者たちにとってははなはだ笑止なことであろう。
 肝心なことは、子どもたちという「繭の中の『いのち』の可能性」をいかに豊かに開いていくか、どうしたら子どもたちの家族関係を回復させることができるか、その一点だけなのだ。制度を整備すればするほど、肝心な一点が霧散していくのは、介護の場所も同様である。
 「子育て以前の事態として、児童養護施設の児童で顕わなのは、その親たちの『消極的出産』によって産まれた子どもが多いことである。できてしまって、中絶のときも見過ごしてしまった。産むより仕方ないといった例もとても多い。これは、多くの若い男女関係にみられていて、いまや普遍化しつつある」(79P)「はじめての出産と子どもの養育は、誰でもひとしくはじめての経験なのだから、祖父母や近親に手助けを求めるか、産院その他で必死に学ぶほかないのだが、その手立てをもつ力も余裕も失っているのである」(80P)  
 崩壊した家族関係の犠牲者として養護施設にやってきた子どもたちが「家族」を取り戻すことは果たして可能なのだろうか。著者は次のように述べている。
 「児童養護施設の子どもたちにとっての家族像は深く傷つき、根底的な『受け止め』の欠如が心身を凍らせている。もし、この子たちに少しの為せることがあるとすれば、『血に等しい水』あるいは『血よりも濃い水』を差しだし、その『凍った血』を受け止め暖めて共に溶かしあうことのほかに何の手立てがありうるだろうか。(略)血と水とは『対』の受けとめと差しだしにおいて、等しく働く関係の力なのだ。家族はそこで他者に開かれている」(86―87p)
 したがって、ファミリーソーシャルワーカーとは「どの家族のうちにもある『家族の原型』をこの世界に対して証しだてるような媒介者である」と著者は定義する。そして、「子どもたちが、児童養護施設という一つのホームを『普遍化された家族の原型』として捉えることができるとすれば、その原型を心身に踏まえて、地の家族とのつながりを捉え直し、さらにはあたらな『家族』を創る歩みをたどれるであろう」(88p)と記す。
 本書のタイトル、『家族の再生』とはその長く厳しい道程そのものをさしているだろう。
本書の後半では「光のこどもの家」で取りくんできた家族関係再生へのさまざまな試みが語られていく。どんなに深い傷を受けても親を慕い、親をかばう子どもたちを見ていると、親を見切るという最後の結論にいたるまで、著者たちは家族の再統合を目指して家庭訪問を繰り返さずにはいられないのだ。著者たちの家庭訪問は家族の流離に伴って全国に及び、両親への呼びかけ、祖父母や兄弟への支援要請とあらゆる手段が尽くされていく。ここまでしても、いちど壊れた関係を完全に修復することは不可能なのだと思うと、著者たちの営みにただただ頭を下げるしかない。
 「普遍化された家族の原型」としての「ホーム」と、両親を含み子どもとかかわってくれる親族や地域の人々など可能な限りの人的資源の確保―この二つを両輪とすることなしには、子どもたちが成長して新しい家族をつくっていくことはできないだろう。
 家族崩壊の連鎖を断ち切るという願いは、不可能性の霧にからめとられていくようにしか見えないかもしれない。しかし、「血よりも濃い水」を希求しつづける無償の営みがあり、その人たちによって守られている場所が存在する限りにおいて、その願いは必ずかなえられると私は信じたい。

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プロフィール

梶葉子

Author:梶葉子
読書のよろこびはなにものにもかえがたいものです。
私を実に実に遠くまで連れ去って
みえない世界を垣間見させ
そこに吹く風や漂う香りを感じさせてくれる
書物に感謝しつつ
ささやかな感想をしたためていきま

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