2010-02

物語のなかへ15

片岡直美著『夏の花』(龍書房)
―「図書新聞」掲載

 十九の掌編小説からなる短編集である。主人公はすべて人生の半ばに差し掛かった女性たちでは心に棘のように突き刺さる記憶を持ち、それを反芻しつつ生きている。トラウマとも呼べない、生の一瞬を影のようによぎった哀しみが、実は思いがけないほどその人の感受性、いや生そのものを規定してしまうということは確かにあるだろう。取るに足らない出来事が、なぜか記憶の大きな場所を占めてしまう。それは、いったんキャンバスに置いてしまった絵の具のようにたとえ上から塗り重ねても決して消えることはない。人は誰もがそのようにして一つのタブローを完成させるしかないのかもしれない。
 十九人の女性たちのおかれた状況は異なり、切り取られた生活の断片はそれぞれなのだが、ある事象への拘泥のしかた、心の傾きようはみんなとても似ている。数十年も前の些細な記憶に執拗にこだわる女、家のノミとダニに翻弄される女、化粧にのめりこむ女……連作とは言えないのだが、さまざまな屈託を抱え込んだ女性たちの生のひとコマがまるでフーガの技法のように手を変え品を変えして繰り出されてくる。
 著者は現実に記憶の物語を呼び込んである種の「幻想域」を設けることで、女性たちの心の歪みやひび割れに独特の屈折率を与えることに成功している。
巻頭の「すあま」は、少女と母との心のすれ違いを買い物を通じて描いている。母から頼まれた買い物は、母の意志をどれだけ自分が正確に理解しえているかという試練となってのしかかる。試練を果たせず糾弾された苦しみは成人した彼女の心に影を落としたままだ。誰にもそんな苦しい記憶がたしかにある。
この短編は父の登場によってすあまの甘さのようなほの明るさで締めくくられるが、鬱屈が濃くなって壊れんばかりの女性たちも多く登場する。
 〈透視〉の術を信じて自転車を漕いで井戸を探しにいくが、見あたらず泣き出してしまう「魔術」の疲れ切った私。目の下に青黒いシミができてしまい、高いお金を払ってメイク教室に通う「化粧」の女は、夫が荷物を詰め込んで家を出て行ったとき、シミが気にならなくなったことに気づく。しかし、そのシミは壊れかかった彼女の中でまたいつ復活するかわからないという余韻が残る。
 「猫」では、野良猫への餌やりを通じて親しくなった二人の関係の揺れ動きが描かれる。野良猫は崩壊していく自然の象徴である。餌やりにのめりこみ関係性の距離感を取れなくなっていく女の過剰さは、崩壊に耐え切れなくなってしまったゆえの病理であろう。
 老いて認知症になった母の物語、「鏡の中の女」も著者の手になると、独特の様相を帯びて迫ってくる。母は裏のうちの家の床が3回も抜けて大音響を発していると訴えるのだ。老母の世界との異和は野良猫のエサやりにのめり込む女の抱える異和とそんなに違っているとは思えない。
集中もっとも長い一編が「春の日に」である。二人は数十年を経て知人のギャラリーで偶然に再会する。男女の関係とは違う。さりとて友情とも呼びがたい、そんなあえかだがかけがえのない関係が遠い過去から蘇ってくる。しかしもはやあの日に帰ることはできないのだ。「私は大事なものをなくしていた。それなのに今の今までそのことを忘れていた。忘れられるって幸せなことだわ。でも一度思い出してしまったら、二度と忘れることはできない」「喜美子の胸の中は暗い雲のようなものがとぐろを巻いて動き回っていた」
 こうした暗い雲の渦巻くような物語をまとめて著者が『夏の花』と名づけたのはなぜだろう。人は齢を重ねるにつれて成長し大人になるというけれど、八十になっても九十になっても、若い自分、幼い自分はすぐ手の届くところにいる。心に亀裂を抱えつつも何とか持ちこたえて歩き続ける女性たちの一人一人にも夏の花のような日々のあったことを告げたかったのだろうか。
 精神病は現代の公害であると看破したのは吉本隆明だったが、すでに傾きかけた地球の夕暮れで、生の再生産者である女性たちは、もっとも過酷にその滅びの波を浴びているのかもしれない。
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Author:梶葉子
読書のよろこびはなにものにもかえがたいものです。
私を実に実に遠くまで連れ去って
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そこに吹く風や漂う香りを感じさせてくれる
書物に感謝しつつ
ささやかな感想をしたためていきま

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