2013-05

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〈信〉ということ 3

英 隆一郎 著『イエスに出会った女性たち』(女子パウロ会)
―「図書新聞」掲載

 キリスト教の信仰者は「イエスに出会う」という経験をして、その出会いを契機に信仰を深めていくのにちがいない。神の受肉した姿がイエスという男性となって地上に現れた以上、イエスとの出会いをより直裁に根源的に受け止めることができるのは女性だろう。中世のシスターたちが神の嫁として神に忠誠を誓うのは自然の流れである。
 欧米ではキリスト教をフェミニズムの視点から解読する試みがさかんに行われているそうだが、カトリックの司祭である著者はそのような視座も射程に入れつつ、イエスと女性のかかわりを通じて信仰の内奥へと分け入る。
1章は「神の母・マリア 決断した者の強さ」。処女懐胎はフェミニストの視点に立てば、父なる神が処女マリアに強制的に性的な介入をした象徴的な事象ということになるわけだが、著者は「このような解釈の裏には長い間、女性が『子どもを産む機械』(略)としてしか認められていなかった差別の歴史があること」を踏まえた上で、「この身に成りますように」というマリアの言葉を「自由決断の表現」と解釈する。男性性と女性性が拮抗する地点から「信」の世界はスタートするという証左として処女懐胎はあるのかもしれない。
 8章は有名なマルタとマリアの姉妹の話。イエスの足元でひたすら教えを聞くマリアとイエスの食事をつくっていて教えを聞けないマルタ。イエスは「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言う。著者は「まず驚くのは、イエスの自由な発想である」とイエスの態度に言及する。「イエスは女性の役割をマルタのような世話係に限定してない。むしろ、マルタよりもマリアの選択をより良いと評価している。女性を既存の役割に押し込めることなく、自由な人格としてかかわっておられるイエスの態度には驚かされる。(略)イエスを前にして、既存の社会的役割や地位はとくに大きな意味はない。イエスとどのようにかかわるかが問われているのである」としめくくる。この箇所はイエスが差別社会への起爆剤として存在しているとも読める。ここでもイエスに触れられるか否かは対峙する女性の意志に委ねられていることは記憶しておいていいだろう。
 イエスに出会った女性たちは姦通罪を犯した女、売春婦、貧しい未亡人……というふうに社会からはじき出された存在だった。だからこそ逡巡をかなぐり捨ててイエスに触れることができたのだ。「神」(のようなものの存在)に出会うためには既成概念を捨て去って自分の意志で求めるものに向かい合うこと。イエスと女性たちとの出会いは、まず第一にそのことを伝えるために置かれているのだろう。
 各章の末尾に信仰のあり方を見つめ直す「ふりかえりのヒント」が添えられている。キリスト教の信仰者でなくても、立ち止まってふりかえる時間は必要だと感じさせられた。


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Author:梶葉子
読書のよろこびはなにものにもかえがたいものです。
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