2017-08

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〈本〉の彼方 11

ソーントン不破直子 著『鎌倉三猫いまふたたび』(春風社刊)
―「図書新聞」掲載

 あの鎌倉山の三匹の猫たちはどうしているかなあと、ときどき思い出していたから、本書で「ふたたび」会えて、うれしいことこのうえなしである。ホクホクして読みすすめた。三匹の猫、小町、タマ吉、みなみはそれぞれが縁あって、鎌倉山の学者夫妻のもとで家族として暮らしている。三匹はいずれも個性的で魅力たっぷりなのだが、本書では自然豊かなご近所に宅地造成の話が持ち上がって、三匹それぞれの日常にも変化が起きていく。
 さて、私たちはたまたま人間として生まれたり、猫として生まれたりしてこの世で暮らしているのだが、小町は北鎌倉から飛んで来るハシボソガラスの半僧坊、「やみよ」と「つぶて」に触れながら、面白い自説を語る。半僧坊とは半分僧侶で半分カラスのことで、「昔はこういう『かけあわせ』みたいな動物が人間からも動物からも慕われていました……つまり、生物には外からは見えない、いろいろな他種の生物の要素が埋め込まれているのです」というのだ。「一種一生物」ではなくて「多種一個体」とは、面白い。小町が旦那様とご長男の「断続平衡的進化論」というお話に自らの観察と思索を交えて導き出したセオリーだそうだが、これは卓見である。
 インテリ猫の小町―実は知を超えたもっとすごい存在なのだが、それは本書を読んでのお楽しみ―とは際立った違いを見せるのが、アビシニアンの血を引くらしい野生児、タマ・ザ・ラッパーこと、タマ吉である。鼻唄ラップでずんずんご近所の山野に分け入っていく。釣鐘人参と蜂は一つの植物、「半虫半花」なのだということを知っているのは、タマ吉だけ。冒険は山野だけじゃない。タマ吉はラッパー魂を発揮して、人の心の中にもずんずん分け入っていく。測量にきたおじさんに近づいて行って弁当をわけてもらい、一緒に昼寝する。なかなかできることじゃない。
 末っ子のみなみは詩人である。夜が明けると白いタンコブみたいになってしまうカラスウリの花をみて、こうつぶやく。「本当に夏の一夜の夢の花です……どうして世の中には、ありふれた場所にこんなに美しいものが、ほとんど誰の目にもとまらないようにあるんだろう」と。
 助けたつもりの野ネズミを思わず食べてしまい、「食べているうちに、神社に行く途中でみた、カラスウリの夢のような白い花が心に浮かびました。あれももうすぐ白い小さなタンコブになってしまうと思いました。なんだか、いろんなことがつらくて、悲しくて、何でこんなことなってしまったんだろう……」と思うみなみ。
 読みつつ、わが家の猫を思った。彼女もしきりに話しかけてくることがある。狭いマンション暮らしで外とのふれあいはベランダだけだが、飛んできた蜂が南瓜の花に潜り込んだことを報告したかったのか、宅配便のお兄さんが「おや、猫だ」と言ってくれたのがうれしかったのか。三匹があまりにいきいきと鎌倉山を闊歩しているからマンション猫はかわいそうと思ってしまうが、タマ吉はタマ吉で、「自然の中で自由に生きているカラスやタヌキとおいらみたいに人間に飼われて人間の父ちゃんや母ちゃんに育ててもらっているのと、どっちがいいのかな」ともらす。そう、それもこれもこの世の出会いなんだよね。
お父さんのソーントンさんは歴史言語学者でバスク語を研究しているらしい。好奇心旺盛な英文学者のお母さんはどうもカフカが好きらしい。小町のカフカ好きはお母さん譲り。「あの鋭く、そして悲しいまでのやさしさに満ちた目はカラスの目です。カフカという方は、犬族の悲しみがわかっていたのです」などと小町は思う。バスク語とカフカが鎌倉山の自然の中で渾然一体となるのも、「多種一個体」だからこそだろうか。
造成工事で起こった、ある不思議な出来事は、「多種」とは現世を生きる者たちだけでなく、時空を超えて集結したいのちの集合体であることを告げているのかもしれないと思った。
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プロフィール

梶葉子

Author:梶葉子
読書のよろこびはなにものにもかえがたいものです。
私を実に実に遠くまで連れ去って
みえない世界を垣間見させ
そこに吹く風や漂う香りを感じさせてくれる
書物に感謝しつつ
ささやかな感想をしたためていきま

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