2017-11

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ジェンダーをめぐって 1

日韓「女性」共同歴史教材編纂委員会・編
『ジェンダーの視点からみる日韓近現代史』・評(梨の木舎)
―「図書新聞」掲載

戦後60年という節目は、戦後の日本が「置き去り」にしてきたさまざまな問題に改めて見直しを迫る区切りとなったが、日本軍「慰安婦」問題や、中国、朝鮮半島、樺太に置き去りにされた残留女性たちなど「ジェンダー」にからむ問題には、今もってなかなか光が当たらないもどかしさがある。
これまでも公教育の場で、日本の近現代の歴史、アジア侵略の実態をきちんと学ぶ時間の少ないことや教科書の記述の歪曲が指摘されつづけてきたが、そこにさらにジェンダーの視点を盛り込むことは、かぎりない困難にさらされているといえる。
「歴史認識をめぐって日韓の市民の間には深い溝があります。とりわけわたくしたち日本市民が近現代の日韓の歴史について基本的な事実をまずしっかりと知ることが大切だと思います」(編集を終えて、鈴木裕子)
「日本の相次ぐ歴史教科書歪曲問題に直面したことが契機となり、アジアの近現代史で起きた人権侵害問題のために研究し、運動してきた韓国と日本の女性研究者と活動家たちが女性の目から、また被害にあった人びとの立場にたって歴史を新たに捉えなおしてみたいと思った。そうしてみると韓国や日本、一国の側からのみの歴史的事実では実状を知ることが難しいということが分り、二カ国で起きたこととその接点を一つの『出来事』として編みなおしてみようという点で意見がほぼまとまった」(同、鄭鎮星)
こうして「ジェンダーの視点」から、しかも「日韓の女性たちが共同で」本書が制作されたことは画期的であろう。
日露戦争以後1945年の敗戦までの日本による過酷な朝鮮半島支配、戦後の朝鮮戦争によって引き起こされた半島の分断や、さらに米軍駐留の問題を「出来事として編みなおし」「女性の目から捉えなおす」とき、これまで描かれてきたどんな歴史よりいっそう鮮やかに「国家」なるものの実相が浮かび上がってくることに驚くばかりである。
日本においては天皇制と家父長制が分かちがたく結びついていたために、女性たちは二重の苦しみを強いられた。朝鮮の女性たちには植民地支配の重圧がそれに加わった。日本軍「慰安婦」の多くは朝鮮人であったことがそれを如実に語っている。
しかし、女性が一方的に被害者であったわけではないということも本書には明記されている。
太平洋戦争当時は「兵士を生み育てる母性」の称揚が学校教育の中でも徹底的に行われ、それを補完するかたちで多くの日本人女性が「直接、間接にわたって15年戦争・アジア太平洋戦争に加担・協力したことも事実であった」。国家の要請によってつくられた多くの女性団体が銃後の守りを積極的に担い、「家庭・社会から厭戦・反戦意識が顕在化することを抑える」ことに加担した。「平塚らいてうのような女性解放の先駆者でさえ、戦時下には彼女の母性主義は優生思想と結びつき、(略)天皇制幻想を補強し、天皇翼賛の思想や行動に向かった」。平塚らいてうばかりではない。与謝野晶子、林芙美子、吉屋信子、高群逸枝あるいは五島美代子や斉藤史らも同様であった。ジェンダーのはらむ本質的な問題の一つとして記憶にとどめられるべきだろう。
本書はそもそも日本軍「慰安婦」問題解決運動を通じて連帯してきた日韓の女性たちが共につくり上げたものであることもあって、「慰安婦」問題が本書の根底を貫く大きな本質的なテーマに据えられている。「慰安婦」問題には民族差別(=帝国主義的侵略)と性差別という、差別の両輪が浮き彫りにされていることからして当然であろう。
「慰安婦」問題は、戦後沖縄や韓国の米軍基地周辺の女性レイプ事件、あるいはまた妓生観光や今日のヨン様現象にまで尾を引いている。それは日本による強制連行が清算されないままに今日の北朝鮮の拉致問題を引き起こしていることと同様の構図である。日本が国家として「慰安婦」の事実を正式に認めて謝罪し補償することなく60年を経過したことを日本人として恥ずかく思うのは私ばかりではないだろう。
「女性国際戦犯法廷」にも多くの紙幅が割かれている。「『慰安婦』被害者に半世紀もの沈黙を強いてきた『恥』の概念を押しつけたのは『貞操』イデオロギーであり、社会に支配的なジェンダー偏向であった。東京裁判で裁かれなかったことや、サンフランシスコ講和条約締結時に話題にもならなかったのは、そこにジェンダー・バイヤスがあったからである」と記すいっぽう、「この『法廷』は、その権威を市民社会に由来するとし、ひとつの国の法、それが依拠する裁判を絶対化していないし、自らの出した「判決」を絶対化してはいない。『常に未完成で保留状態にある歴史的記録の一部である』とし、国家を超えて共有される価値、市民が法を創り出す未来へと開いている」と述べられている。
わたしたちはこうした本書の記述に真摯に向き合うべきだろう。
本書に書かれた歴史は、「国家」の犯罪性がジェンダーという形で吹き出したその歴史である。しかし、国家という枠にとらわれているかぎり、問題は常に先送りされていくだけだと思う。
だからこそ、「人種やジェンダーにまつわる差異がない世界を望むのではなく、人種やジェンダーが問題にならない世界、言いかえれば人種やジェンダーによって権力の階層秩序が決定されることのない世界、さまざまな差異が差異として自由に自らを表現するような世界」(ネグリ/ハート『マルチチュード』)を見通す視座というものも一つの活路となるはずだと思いたい。
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読書のよろこびはなにものにもかえがたいものです。
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