2017-05

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病理という世界へ 1

綿森淑子監修 土本亜理子著
『純粋失読―書けるのに読めない』・評(三輪書店)
―「図書新聞」掲載

 本書を読みながら、以前にテレビで見て、非常にショックを受けたドキュメンタリーを思い出していた。
 その人はたった今のことすら記憶にとどめておくことができないのだった。たった今話したこと、感じたこと、考えたことが一切蓄積されずに霧散してしまう。その人の悲しみ、衝撃は深いが、その感情すら、とどまることがない。その様子を見つめながら、つくづく人間という存在は「記憶」の集積なのだと思った。そして、脳の不思議さを思った。
「現代とは、要するに脳の時代である。情報化社会とはすなわち、社会がほとんど脳そのものになったことを意味している。脳は、典型的な情報器官だからである」「現代人はいわば脳の中に住む」「現代人は、脳の中に住むという意味で、いわば御伽噺の世界に住んでいるといっていい」……養老さんの『唯脳論』の〈はじめに〉の一節である。「脳」は肉体の臓器のひとつに過ぎないのに、ある意味では、宇宙も社会も歴史も、すべて人間の脳の描く蜃気楼のようなものかもしれないのだ。
 右脳と左脳の働きのちがい、ボケをめぐる前頭葉や海馬の働き、身体機能のあらゆる部位と連動している脳の働きの精緻さ。脳と心、脳と記憶……どんなに高度なコンピュータでも絶対に再現できないその仕組みの不思議さを、本書は「純粋失読」という思いがけない障害の存在として突きつけてきたのだった。
 本書を読むまで、まったく知らなかった。「字は書ける。それなのに読めない」――そんなことがあり得るのだろうか。失語症であればわかる。脳卒中などで言葉が出なくなったり、話が上手にできなくなったりする人たちは親戚や知人にも何人かいた。ところが、「読む」ことだけができなくなるのだという。
 著者自身も、言語聴覚士(ST)で広島県立保健福祉大学教授の綿森淑子氏との出会いがなければ、「純粋失読」の存在を知ることはなかったという。「そうした障害があること自体が驚きであり、正直にいってしまえば、怖ろしいという気持ちさえ抱いた。それとともに、『書けるのに読めない』という障害をもたらす脳の不思議さにもとらわれた」(あとがき)。私も本好きでは人後に落ちないと思う。もし、そこに字があって見えているのになんと書いてあるか、急にわからなくなってしまったら、どうなるだろうか。
 意外なことに、「純粋失読」の存在は十九世紀の終わり頃には明らかにされていたらしい。「純粋失読」という名前にどこか文学的な印象を抱いたのだったが、読み書きが同じようにできない障害に対して、「読むことだけが純粋にできない」ということをあらわしているのだそうだ。
 書けるのに読めない。第1章では、そんな状況に投げ込まれながら夫婦で意欲的なリハビリに取り組む岡田さん夫妻の5年間が紹介されている。ご主人の失読に次々とリハビリのアイディアを講じていく奥さんの対応がすばらしい。つづく第2章では「純粋失読」の学術的な研究の現状が紹介される。書けるのに読めないとはどういうことか。岩田誠教授によれば、読むということは「右脳で視覚的にとらえた記号を左脳で言語に変えること」だが、脳出血などによる病変のために「視覚情報を左脳に送り込む経路そのものが、途絶えてしまっている状態」らしい。でも、左脳が侵されているわけではないから、しゃべることも書くこともできるのだという。 
 脳、おそるべし。
 しかし、脳ほど症状やそれに伴うリハビリの方法が個別性によって変わってくる部位もないだろうと思う。「純粋失読」という脳障害の困難さと回復への大変な道のり、また、身体の障害とちがって、一見正常に見えるためにこうむる様々な不利益は、そのまま最終章の「高次脳機能障害をもつ人たちの社会的状況」へとつながっていく。
 高次脳機能障害が身体障害福祉法の対象とされていないということを知るに及んで、またしても同じ構図かという思いを禁じえなかった。現行法にとらわれない実情に即した認定制度をという家族たちの声に国はこたえる責任がある。
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Author:梶葉子
読書のよろこびはなにものにもかえがたいものです。
私を実に実に遠くまで連れ去って
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書物に感謝しつつ
ささやかな感想をしたためていきま

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