2017-05

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ジェンダーをめぐって 2

江種満子著
『わたしの身体・わたしの言葉―ジェンダーで読む日本近代文学』・評(翰林書房)
―「図書新聞」掲載

     
「フェミニズムが『セックス』に代わって『ジェンダー』という聞き慣れない用語を持ち込んだのは、一九七〇年代のことである。それ以来、性差をめぐる議論は、大きなパラダイム・チェンジを被ることになった」(上野千鶴子・『ジェンダーの社会学』所収「差異の政治学」)。そして、以来30年近くにわたって、セックスがジェンダーを規定するのか、それともジェンダーがセックスに先行するのか、いやいやジェンダーは一つである、それは境界なのだ、などと、さまざまな議論がつづけられてきた。しかし、いま周囲を見渡せば、結婚も出産も選択しない女性は増え、離婚も日常茶飯事、子育ては夫婦で協力し合い、出産後ただちに職場復帰をしてくる女性たちも大勢いる。現実はジェンダー論議をしのぐ勢いで激しく変化してきたように思われる。
本書の序論で著者が「ところがいまや、その『ジェンダー』でさえが鎮静化の傾向をみせている」と語ることと、こうした変化は密接にからまりあっているだろう。
「時あたかも、日本ではさまざまな意味で戦争が焦点となりつつある。ある方面からは、〈父〉を柱とする家族共同体の再建を叫ぶ声があがり、ジェンダーはこれを妨げるイデオロギーにほかならないと目され、あからさまなバックラッシュにさらされる事例もあるほどだ。(略)しかし、フェミニズムやジェンダーへの関心が鎮静化している現在の状況は、むしろフェミニズム批評/ジェンダー論の真価を問い、そしてジェンダーを組み替える好機として積極的に受けとめるべきであろう」
著者はこのように述べつつ、日本近代文学をジェンダーで読み解くという「テクスト論」を展開していく。
「終始心がけたことは、テクストの精読である。ここでいう<精読>とは(略)文学の自立性を信じて自閉的に文学作品に向かうことを意味するのではない。そうではなく、文学テクストを、歴史や社会や経済など人間がつくりだす広範な文化現象の一端ととらえ、その文学テクストに潜在するジェンダーの位相から、総体としての文化現象に批評を企てることを目指した読み解き、を意味している」
文学の自立性を信じることと、自閉的に文学作品に向かうこととは必ずしもイコールではないだろうが、それはさておき、著者は作品にたちあらわれる男女や語り手、作家のジェンダー意識へと分け入っていく。
取り上げられた「テクスト」は明治期の清水豊子・紫琴、樋口一葉にはじまり、与謝野晶子、青踏の女性たち、漱石、藤村、有島武郎、志賀直哉、伊藤野枝、神近市子、宮本百合子など多岐にわたる。
「かつて自然界のさなかに誕生した人間存在が、言葉をつくりだす前後の未分化な境界域を、手荒に単純化」することに著者は危惧を抱いている。したがって、もっと精緻にその未分化な境界域に分け入りたい。そこにこそ、この社会に網の目のように張り巡らされたジェンダーを本当の意味で無化していくエネルギーが孕まれているはずだ……そんなふうに感じているように思われる。
それは著者の言葉を借りれば「言葉以前・ジェンダー以前の不定形な<エロス>」とどう向かい合うのかということになるだろう。
そこでここでは『道草』の出産シーンについての個所を取り上げてみたい。受胎・出産はどんなにジェンダー意識が無化されようとも最後に残る女性性の問題であり、「ジェンダー以前の不定形な<エロス>」の根幹に関わると思うからだ。
『道草』の御住の出産の場面で主人公の健三は、産婆の到着を待たずに生まれてきた赤ん坊に狼狽し、でもこのままほっておいたら風邪を引くだろうと、赤子の上に綿をかぶせる。著者はこれを「読者は(必要なら、女の読者である私は、と限定してもよい)なによりも、分娩後の彼の対応の無策ぶりにたいして、彼が胎児の感触に感じる『気味の悪』さ以上に、寒々としたフェティッシュな『気味の悪』さを感じずにはいられないのも事実である。(略)頼りになるのは健三だけだという非常時にもかかわらず、なお健三を自制させる<男たるもの>という分別(ジェンダー)に縛られて、彼は何も見ようとはしない」
このように厳しく見据えている。いっぽう江藤淳は、講演「『道草』と『明暗』」で次のように語っている。
「だが、それにもかかわらず人間はある瞬間の交感というようなものを感じることもできる。それは、たとえば、子供をあやしている細君を、健三が脇でぼんやり見ているような瞬間におとずれる、あるやさしさの感覚といったようなものであります」
むろん、著者はこんな江藤淳の感受にもある種のジェンダー意識を感じ取ってしまうかもしれないが、やはりこの「あるやさしさの感覚」、すなわち<対幻想>という視点を抜きにしてジェンダーは語れないのではないだろうか。
「人間が男または女であるのは、ぼくらの言葉でいえば<対幻想>の場面においてだけであって、いわば家族内においてだけ、人間は男または女であるわけです」「シングル(単独者)になったときと、(略)共同社会のなかに入っていったときには、本質的には、人間は、人間だけであって、男または女ではないわけです」(『対幻想―n個の性をめぐって』)
この吉本隆明の言葉はいまも全く古びることなくジェンダー問題の本質をついていると私には思われる。
私たちが漱石の作品に感動するのは、漱石がこうした「男―女」と「人間」を混同することなく見事に描いているからだと思う。
著者は「言葉以前・ジェンダー以前の不定型な<エロス>の位相は、定型化を強いるジェンダーを解体するために、つねにふり返り、感じ直さなければならない基底である」と述べて本書を閉じているが、この不定型な<エロス>は<対幻想>とのかかわりの中でしか見えてこないことも確かである。
文学はあらゆる精読に耐えながら、その基底へと人間を誘うために私たちの前に置かれている。





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Author:梶葉子
読書のよろこびはなにものにもかえがたいものです。
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