2017-09

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物語のなかへ19

泉りょう 著『迦陵頻のように』(編集工房ノア)
―「図書新聞」掲載

 五つの短編が収められている。それぞれの主人公は人生の後半にさしかかった、五十代とおぼしい女性たちだ。同世代の多くの女性たちが多かれ少なかれ抱え込んでいるに違いない心の暗部が主人公たちに仮託されている。私自身もそんな一人として共感をもって読み進めた。
 家族の離散や死別などの変化に加えて個体としての老いが容赦なく襲ってくる五十代。対の関係性は空気のような存在になるどころか微妙な歪みや亀裂をあちこちに生じさせていく。生物的な産む性とジェンダーとしての性を合わせもつ女性にとって、老いと折り合いをつけて生きていくことはたやすいことではない。本書の主人公たちが感じている満たされなさや淋しさ、取り返しのつかなさは、老いへ向かっていく中でいかに対の関係性を捉えなおし、また深めていけるかを裏側から問うている姿とも言えるだろう。
 触れようとするとたちまち日常性の中に霧散して行ってしまう心の翳りやゆらぎを、作者は生活のディテールを通じてくっきりと浮かび上がらせていく。
 たとえば「三伏の候」の一人暮らしのミチルの朝のひととき。「毎朝、テレビの画面が立ち上がるこの瞬間、ミチルの胸はざわつく。このハンサムなアナウンサーが、いつもの顔で、『今日で世界は終わりました』と、告げるのではないかと、思うのだ。このアナウンサーならば、どんなニュースも、爽やかに涼やかに伝えてくれることだろう」。世界と対峙するときのミチルの孤独感はこんなふうに私たちに手渡される。
 「玉の緒」では居酒屋のカウンターに男と並んでいる会話の合間にこんな描写が挿入される。「憮然としながら、理子は煮付けた里芋に箸を伸ばした。煮崩れる直前で火からおろした里芋は、きちんと面取りされた包丁跡を残していた。気持ちよく、すうっと箸が通った」。ここで理子は里芋の煮付けを男の心を取り出して味わうかのように味わっている。
 「三伏の候」のミチルは着物の派遣販売員。両親を見送ったのち家を整理して五十歳も半ばを過ぎてからローンを組んでマンションを買う。着物は女性を魅了してやまないものだが、愛着が深ければ深いほどに情念の深みへと誘う悪魔のような存在でもある。着物を仲立ちにした女同士のからまりあうような駆け引きは「三伏」の暑さの中でえんえんと続いていくようだ。
 「迦陵頻のように」の唱子は大学の卒論の指導をしてくれた歳の離れた教官と結婚する。長い結婚生活を経て、いまは深まる夫の老いを覚めた目で見据えている。夫の死後に見た迦陵頻の舞に、唱子は夫が少年だったときの姿を重ね、深夜のコンビニで出会った少年を重ね、自身の体内におこっているかもしれない兆しに耳を澄ます。
 「玉の緒よ」の理子は同僚の妻子ある教師と式子内親王を通じて親しくなる。二人とも式子内親王に惹かれているが、理子は式子内親王が死の床で会うことを熱望した法然がついに彼女のもとを訪れなかったことを許しがたいと言う。しかし男は、行かなかった法然に与する。二人の思いのベクトルは正反対の方向に向かっていく。
着物、迦陵頻、式子内親王……他の二編も合わせ、どの物語にも魅惑的な触媒が配置されていて主人公たちの人生と反応しながら、対の関係、家族の関係をあぶりだしていく。選ばれた触媒はいずれもそれぞれの女性の造形と拮抗していて、作品の奥行を深めている。
 あとがきには「これらの執筆時期は、私の五十代の十年間にほぼ重なります。五十代は女のターニングポイントなのかもしれません。私には、とても充実した、面白い十年間でした。/今年還暦を迎えますが、今私は、少女の頃のように、軽やかで自由な気がしています」と書かれている。
 親しい者との死を経験し迫りくる老いを見据えつつ、今が「少女の頃のように、軽やかで自由」と言う著者のその軽やかな心持ちが、作品の中の女性たちの意志的なまなざしにあらわれていて、暗さの底を突き抜けていこうとする明るさを感じさせる。
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プロフィール

梶葉子

Author:梶葉子
読書のよろこびはなにものにもかえがたいものです。
私を実に実に遠くまで連れ去って
みえない世界を垣間見させ
そこに吹く風や漂う香りを感じさせてくれる
書物に感謝しつつ
ささやかな感想をしたためていきま

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