2017-11

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病理という世界へ 3

伊藤進著
『心理学って、役に立つんですか?』・評(川島書店)
―「図書新聞」掲載
 
 心理学といっても、フロイトの夢判断やエディプスコンプレックス、ユングの集合的無意識といった言葉が断片的に浮かんでくるばかりである。それに、フロイトやユングは心理学者というよりも宗教的な領域に近い思想家ではないかという気がする。 
 自分とは何か、心とは何か、心と脳はどういう関係にあるのか……誰しも肉体の健康と同じくらい、あるいはそれ以上に心に対する関心は強いはずだ。頻発する少年犯罪を見るにつけ、少年少女たちの心の危うさを思い、中高年のうつ病や自殺の報に接するたびに、私たちの心があまりに壊れやすいことに慄然とする。いったん壊れてしまったら、自分は存在しないに等しい。
 しかし、壊れやすい心にふさわしい処方箋があるのだろうかと考えると、心をたとえば医学における内臓のように取り出して研究したり分析することが可能なのかという疑問がぬぐえない。心はもっと個別的なもの、したがって文学的、思想的、宗教的なものじゃないのか。
 本書のタイトル、「心理学って役にたつんですか?」は、まさに私たちのこんな深層心理をついているといえるだろう。
 本書を読み始める前にあとがきをちょっとのぞいてみたらこんなことが書いてあった。「神経医学者オリバー・サックスの著作と出会い、人間についての研究を物語性をもたせて表現することの重要性と面白さに魅了される。サックス自身は、神経心理学者ルリアの『ロマンティックな科学』という概念に影響を受けたということである。科学と芸術の融合である。「現実の文脈」と「物語性」――心理学をこの2つをそなえたとらえ方で考えてみる、書いてみる。そして、できるだけ多くの人たちと心理学を分け合う」
 研究成果に物語性を持たせて表現するってどういうことなのだろう。
「科学と芸術の融合」?
 本書を読み始めてたちまち納得した。なるほど、こういう表現方法があったのだ。
 本書は、大学で心理学を教える「大倉山シンノスケ」を主人公に、心理学が日常生活においてどのように役にたつかを、シンノスケの日常生活をつづる形で実にわかりやすく教えてくれる。心理学の入門書ならぬ「出門の書」であると著者がいうとおりである。
 シンノスケは仕事を離れればごくふつうの社会人という設定だから、シンノスケの襲われるストレスやシンノスケが挑戦する禁煙も私たちに身近なものだ。シンノスケの対ストレス作戦は「忙の字追放作戦」と「涙作戦」という2つの心理作戦をとって実行に移される。禁煙にあたってはフェステンガーという心理学者の「認知的不協和の理論」を活用する。シンノスケの日々の物語を読んでいるうちに、心理学って意外に役に立つかもと感じられてくるから不思議である。
 心とは何か。
 シンノスケは、脳は「コミュニケーション器官」であり、外界、体の各部、脳内の3つのコミュニケーションをお互いに関係づけながら行っているとして「心は、脳がコミュニケーションの仕事をするときに生み出される現象なのである」と語る。心が〈関係の現象〉であるという説明はなかなか説得力がある。。
 シンノスケは人生一流であるばかりが能じゃない、「二流であるのも悪くない」という持論の持ち主だ。個人的には人生に一流も二流もないよ、といいたいところだが、こうした気の持ちようも人生のある局面では必要かもしれないなあと思わせる。シンノスケは妙に魅力的な人物なのである。
 シンノスケはなりたくて心理学者になったわけではない。行きがかり上心理学者になっただけらしい。職業ってそんなものだよなあ、と思うと、シンノスケの、いや著者の専門である認知心理学がとても信頼に値するものであるように思えてきた。
 現代の心理学は「脳における情報処理活動に注目して研究するアプローチが主流」だそうだが、学問を「物語」として表現する……このやり方、新しい表現ジャンルとしてもっともっと多くの研究者たちにチャレンジしてもらいたいと思う。しかし、その前提として、シンノスケのような魅力的な人間がそこに描かれていなくてはならないとなると、一見やさしいようでいて誰にでもできるという手法ではないことがよくわかってくる。学問と表現の新しい可能性を見たと思った。

病理という世界へ 2

大沼孝次著
『ブラックジャックの名のもとに―日本医療の問題を探る』・評(長崎出版)
―「図書新聞」掲載

 マンガ『ブラックジャックによろしく』が400万部という驚異的な発行部数を記録したのは、医療ミスが頻発して病院や医師への不信が高まり、多くの人が現代医療に関心を持つようになった端的な現れだろう。
 単行本が2冊ほど出たとき「赤ひげやブラックジャックのようなヒーローを描くのでなく、どこまでもアンチ・ヒーローに徹することで、日本医療の暗部をえぐりだせ」と激励する書評を目にしたことがあって、印象に残っている。
 マンガは医療現場の救いのない現状を研修医、斎藤英二郎を通じて「救いのなさ」そのものとして徹底的に描いていく。佐藤秀峰はマンガならではの大胆な描写力で医療現場の悲惨さを、つまりは私たちがさらされている恐ろしい現実をストレートにつきつけるとともに、患者に向かい合う医師たちの様々な有り様を見事なまでに浮き彫りにした。
 病院が権力闘争や金儲け主義の跋扈する場所となってしまったり、人間の普通の生活感情からかけ離れてしまった経緯は、裁判所や学校や警察、あるいは政治といった「志」や「人間」への深い関心がその根幹にあるべきはずの仕事の凋落ぶりにもそのまま当てはまる。そこでは滑稽なほどに見事なヒエラルキーが支配していることでも共通している。
 話は医療現場がテーマだけれど、こうしたもろもろの現実へのやりきれなさ、その証左の400万部でもあると思う。それだけ、この作品が医療問題を超えて「時代」の抱え込む弱点を突いていたともいえるし、医療現場が時代の「病」そのものをもっとも端的に表す場所となってしまった皮肉な現状をあらわしているともいえるだろう。 
 そして、マンガ『ブラックジャックによろしく』の衝撃は、私たちをこんな思いにかりたてた。「ここに描かれている医療現場の実態は、果たしてどれくらい真実なのだろうか」……。
 誰もが抱いたその思いに答える一つの形が本書である。
 第1章「告発された現代の日本医学界の構造」では、研修医制度の実態、深夜の救急医療、医局の構造、医療 財政、医師の腕前と手術数の関係、小児科医の不足の問題、看護士の夜勤などがマンガのストーリーに添う形でていねいに解説され、検証されていく。
 第2章「現代の最新医療技術に対する検証」は、マンガに登場した病気に対する最新医療技術についてのレポートである。肝硬変、高血圧、高脂血症、腎不全、あるいは妊娠、出産に伴う病気や不妊治療、異常出産等に対する最新の治療法の紹介とその安全性や危険性が詳述されている。
 そして、結局は「医師とは何か」という「人間」の問題が問われることになる。第3章「登場人物の性格分析」に多くの頁が割かれているのはそのためだろう。著者の言葉を借りれば、医師たち「一人一人の胸の内に、今の社会の病巣が秘められている」のだ。
 ヒーローはいらないが、私の病としっかり向き合ってくれる医者にはいてほしい。この誰にも等しい願いは、どうしたらかなえられるのだろう。本書の著者は「自由診療と保険診療の両立化による経済の自由競争のなかで、病院もそれぞれ独自の競争を展開し、生き残りを図る必要がある」と考えている。病院が「経済の自由競争」にさらされることは、たしかにそんな医師と患者の出会いを作り得る条件のひとつかもしれない。けれども、患者の側にしてみれば、金がなければ治してもらえない現実が、それで変わるとも思えない。
 最終章で著者は「私たちは彼らのスペシャリストとしての高度な技術に頼り、また、そこに人としての誠実さを求めます。そして、それだけが私たちが医師に求められる限界であると思うのです」と述べている。まさにその「人としての誠実さ」こそが、研修医、斉藤英二郎の苦悩なのだと思うと、ますますやりきれない思いに襲われる。生き物を工業製品として扱い、ついには「牝馬に自分のクローンを生ませる」ところまで行き着いた人間に、どんな医療の道が残されているのだろうか。


病理という世界へ 1

綿森淑子監修 土本亜理子著
『純粋失読―書けるのに読めない』・評(三輪書店)
―「図書新聞」掲載

 本書を読みながら、以前にテレビで見て、非常にショックを受けたドキュメンタリーを思い出していた。
 その人はたった今のことすら記憶にとどめておくことができないのだった。たった今話したこと、感じたこと、考えたことが一切蓄積されずに霧散してしまう。その人の悲しみ、衝撃は深いが、その感情すら、とどまることがない。その様子を見つめながら、つくづく人間という存在は「記憶」の集積なのだと思った。そして、脳の不思議さを思った。
「現代とは、要するに脳の時代である。情報化社会とはすなわち、社会がほとんど脳そのものになったことを意味している。脳は、典型的な情報器官だからである」「現代人はいわば脳の中に住む」「現代人は、脳の中に住むという意味で、いわば御伽噺の世界に住んでいるといっていい」……養老さんの『唯脳論』の〈はじめに〉の一節である。「脳」は肉体の臓器のひとつに過ぎないのに、ある意味では、宇宙も社会も歴史も、すべて人間の脳の描く蜃気楼のようなものかもしれないのだ。
 右脳と左脳の働きのちがい、ボケをめぐる前頭葉や海馬の働き、身体機能のあらゆる部位と連動している脳の働きの精緻さ。脳と心、脳と記憶……どんなに高度なコンピュータでも絶対に再現できないその仕組みの不思議さを、本書は「純粋失読」という思いがけない障害の存在として突きつけてきたのだった。
 本書を読むまで、まったく知らなかった。「字は書ける。それなのに読めない」――そんなことがあり得るのだろうか。失語症であればわかる。脳卒中などで言葉が出なくなったり、話が上手にできなくなったりする人たちは親戚や知人にも何人かいた。ところが、「読む」ことだけができなくなるのだという。
 著者自身も、言語聴覚士(ST)で広島県立保健福祉大学教授の綿森淑子氏との出会いがなければ、「純粋失読」の存在を知ることはなかったという。「そうした障害があること自体が驚きであり、正直にいってしまえば、怖ろしいという気持ちさえ抱いた。それとともに、『書けるのに読めない』という障害をもたらす脳の不思議さにもとらわれた」(あとがき)。私も本好きでは人後に落ちないと思う。もし、そこに字があって見えているのになんと書いてあるか、急にわからなくなってしまったら、どうなるだろうか。
 意外なことに、「純粋失読」の存在は十九世紀の終わり頃には明らかにされていたらしい。「純粋失読」という名前にどこか文学的な印象を抱いたのだったが、読み書きが同じようにできない障害に対して、「読むことだけが純粋にできない」ということをあらわしているのだそうだ。
 書けるのに読めない。第1章では、そんな状況に投げ込まれながら夫婦で意欲的なリハビリに取り組む岡田さん夫妻の5年間が紹介されている。ご主人の失読に次々とリハビリのアイディアを講じていく奥さんの対応がすばらしい。つづく第2章では「純粋失読」の学術的な研究の現状が紹介される。書けるのに読めないとはどういうことか。岩田誠教授によれば、読むということは「右脳で視覚的にとらえた記号を左脳で言語に変えること」だが、脳出血などによる病変のために「視覚情報を左脳に送り込む経路そのものが、途絶えてしまっている状態」らしい。でも、左脳が侵されているわけではないから、しゃべることも書くこともできるのだという。 
 脳、おそるべし。
 しかし、脳ほど症状やそれに伴うリハビリの方法が個別性によって変わってくる部位もないだろうと思う。「純粋失読」という脳障害の困難さと回復への大変な道のり、また、身体の障害とちがって、一見正常に見えるためにこうむる様々な不利益は、そのまま最終章の「高次脳機能障害をもつ人たちの社会的状況」へとつながっていく。
 高次脳機能障害が身体障害福祉法の対象とされていないということを知るに及んで、またしても同じ構図かという思いを禁じえなかった。現行法にとらわれない実情に即した認定制度をという家族たちの声に国はこたえる責任がある。

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プロフィール

梶葉子

Author:梶葉子
読書のよろこびはなにものにもかえがたいものです。
私を実に実に遠くまで連れ去って
みえない世界を垣間見させ
そこに吹く風や漂う香りを感じさせてくれる
書物に感謝しつつ
ささやかな感想をしたためていきま

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