2017-11

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〈本〉の彼方 6

現代英語文学研究会 編『〈記憶〉で読む英語文学――文化的記憶・トラウマ的記憶』
(開文社出版)
―「図書新聞」

 本書の副題は「文化的記憶・トラウマ的記憶」であるが、記憶は個々人の脳裏に刻まれたプライベートな領域のものであるばかり思っていた。「文化的記憶」とはどういうものなのだろうか。「はじめに」において、それは「ある集団がそれを介して自らの過去を選択的に構成して集合的アイデンティティを確立するための、組織化され、諸々のメディアによって客体化された共通の知識の蓄えというコンセプトである」と説明されている。
私たちは歴史認識や歴史記述が客観的な一枚岩で成り立っているものでないことを知っている。意図的な歪曲や改ざんの危機にさらされながらも人々に受け継がれていく共通の知識の蓄え、文化的記憶こそがいわゆる歴史にとって替わられるべきものなのかもしれない。
 本書は、文学作品の中から「文化的記憶」と「トラウマ的記憶」を取り出すことによって、個人的な記憶と集団的な記憶の相互作用を検証しようという試みである。
 これまでの小説の鑑賞や評論とはかなり異なる切り口の七つの論考が並んでいる。
 アメリカ文学における文化的記憶として取り上げられるのは、第一章メルヴィル『ビリー・バッド』の「後日談」、第二章フォークナーの『征服されざる人々』、イギリス文学から第三章『ハムレット』、第四章『フランケンシュタイン』、つづく第五章から第七章までは、アメリカ文学における心理的・トラウマ的記憶として、マーク・トウェインの未完作品「インディアンの中のハック・フィンとトム・ソーヤー」、フィッツジェラルドの『夜はやさし』、トニ・モリスンの『ビラヴィド』が俎上に載せられている。
 十七世紀に書かれた『ハムレット』において、奥田優子が文化的記憶として注目するのは「亡霊」である。当時の「エリザベス朝社会に刻み込まれた宗教的記憶」を、近年研究者の間で試みられてきた「旧教と新教の宗教対立」という観点よりも時代をさらに遡り、五世紀半ばに没したアウグスティヌスの教説をもとに「よみがえる死者の記憶」として読み解いていく。
 亡霊は日本的に言えば成仏できずにさまよっている死者の姿である。生者が死を恐れ、死者を畏怖して祀る行為は素朴な信仰に共通する根源的な有り様だろう。王の亡霊は古層の信仰の投影としてシェークスピアに呼び出されたとも言える。原罪という意識に逃れがたく縛りつけられた強固な一神教のヨーロッパ世界にあっては、「人は神の記憶を生きながら、同時にその記憶の一部を刻印のように心に宿した存在であると言いうる」と著者は述べる。たしかに亡霊も死者もそして生者もまた「無辺の神の記憶」の域を出ないということになるのかもしれないが、では神とは何か。死者の記憶の背後に広がる古い時代の土俗的な世界への通路を改めて垣間見せられた気がした。
 集団としての「トラウマ的記憶」から山下昇がアプローチを試みているのは、トニ・モリスンの『ビラヴィド』である。人間社会に深い傷跡を残す奴隷制度について、『ビラヴド』の文庫版あとがきで訳者の吉田廸子氏は、トニ・モリソンには「痛みに充ちた過去から目を逸らし、それを忘却に附そうとする今日のアメリカの風潮、モリスンの表現を使えば『全国規模の記憶喪失』への危惧がある」と述べている。
 『ビラヴィド』は、奴隷制度下に子どもを送り出すよりはと自分の産んだ赤ん坊を殺すという苦渋の選択をした奴隷のセサと彼女を取り巻く人々、そしてビラヴィド(本稿では上記のように表記)の織りなす物語である。ビラヴィドの正体について著者は5つの解釈を紹介しているが、その一つがビラヴィドを黒人の歴史の集合体とみなすものである。「ビラヴィドの語りには個人を超えた経験が組み込まれており、中間航路を行く奴隷船での奴隷たちの経験が(略)象徴的に描かれている」という解釈は、トラウマ的記憶を作家がその内奥でいかに引き受け、作品化していくかの端緒を語っている。
 著者はトニ・モリスンの語りの技法についても言及し、アフリカ的語りについて触れている。「アフリカ的宗教においては生者と死者の境界はあいまいであり、生者の生活の中に死者が生きている(侵入してくる)。またアフリカ的コミュニケーションは基本的に音声によるものであり、呼びかけと応答(略)である」「この小説の基本形はアフリカ的な呼びかけと応答の連続であり、一連の過程を経過していく中で感情的な浄化が達成される」「トラウマ的記憶を語りによって解放し、再生を遂げていくことが可能であることも本小説は豊かに描き出している」と結論づける。
 人は誰もが記憶を湛えた器として記憶の海を渡っていく……集合的アイデンティティはそんな無数の航路が時代や場所を超えて形づくる澪のようなものなのかもしれない。

〈本〉の彼方 5 

学校法人 神奈川大学広報委員会 編『17音の青春 2012 五七五で綴る高校生のメッセージ』
(NHK出版)
―「図書新聞」

 高校生と俳句といえば、全国の高校生たちが松山市で学校別に競い合う「全国高等学校俳句選手権大会」(略称・俳句甲子園)が有名で、いまや夏の風物詩となった感がある。現在活躍する若手俳人の多くが俳句甲子園出身であると聞く。俳句人口は高齢化してしまったかもしれないが、こうしたチャンネルを通じて、古い結社組織にとらわれず俳句という形式そのものの魅力に直接的にひきつけられながら俳句をつくろうとする若者たちが生まれていることはすばらしいと思う。それこそ、俳句という詩の器の生命力の証しでもあるだろう。
 俳句甲子園がスタートしたのと同じ1998年に神奈川大学創立七十周年を記念して創設されたのが「神奈川大学全国高校生俳句大賞」である。毎回受賞作品は一冊の本にまとめられ、本書はその第一四回目に当る。
俳句甲子園が学校別の対決であるのに対して、こちらはあくまでも個人参加。三句を応募して作品の成果を競い合う。
 毎年九月で締め切り、十二月に受賞作品の発表がある。今回は大震災の年でもあり応募数の減少が懸念されたが、前年度より千五百通も多い1万1000通を越えたそうだ。最優秀賞受賞作品五名、入選作品六十五名、そして一句入選作品が二十頁にわたって掲載されている。 
 選考委員は宇多喜代子、大串章、金子兜太、復本一郎、黛まどかの五氏。本書には欠席した兜太氏をのぞく四氏による選考座談会と五氏の講評、村井丈美氏と山口優夢氏による入選作品の寸評、そして一句入選作品については歌人の栗木京子氏が文章を寄せている。
 もっとも多感な時期である十代後半に歳時記や俳句形式と出会った高校生たちの衝撃や共感はどんなものだったのか。本書の作品を通じてそのときめきを追体験することができる。初々しい作品があるいっぽうで、そんなにうまくまとめないでと声を掛けたくなるような出来上がった感のある作品も見受けられる。
 最終選考に残った十一人の候補者の中から五名が大賞を受賞したが、私は金子兜太が最優秀作品に押した三人のうちの一人、青木智さん(開成高校二年、当時)の次の作品に最も惹かれた。

  麦秋の人は待人だと思ふ
  麦秋やトロンボーンを空へ向け
  麦秋のタペストリーの鳥の青

 作者は「今、改めて自分の句を見たときに、(略)私も何かを待っているのかもしれないと、ふとそう感じました」と語る。自分が産み落とした一句を通じてさらに深く自分と出会う……それこそ俳句ののぞむところだろう。
金子兜太はこんな文章を寄せている。
 「(略)俳句の伝統については、私は『詩形一本』、それ以外はすべて属性と答えてきた。この最短定型が伝統の本体で、季語は約束であり、俳諧と言われてきたそのほかの内容も、この形式が生み出した属性(独特の、貴重な属性)と言いつづけてきた。従って、五・七・五の音律と切字を十分に活用することによって、じつに豊富な内容を簡潔に表現することができると確信している。/諸君、俳句を自由に駆使されよ」。
 こうしたエールに送られて俳句のとば口に立った若者たちが、自分にしかつくれない一句を目指してどんなふうに俳句の森へと踏み込んでいくのか、祈るような気持ちで読み終えた。
最後に思わず立ち止まってしまった刺激的な作品の中からいくつか挙げておこう。

  不揃ひのビーズを通す星祭 高瀬早紀
  鉛筆を尖らせ夏を描いてみる 品川由衣
  捕虫網木々の匂いに強く触れ 田頭理沙
  生まれれば命名されてサングラス 若藤礼子
  精神の自由メロンの丸くあり   同
  無くし物写真の中に見つけたり 実川栞里
  土産物滝の空気を含ませて 今田京介
  夏蜜柑雨後の明るさもて売らる 山口萌人
  黒板に少し涼しき風が吹く 上垣佳可

〈本〉の彼方 4

荻生待也 編著
『図説ことばあそび 遊辞苑』・評(遊子館)
―「図書新聞」掲載

 クロスワードパズル、語呂あわせ、駄洒落、しりとり、アナグラム、回文……こうして思いつくままに並べてみると、二十一世紀の今日でも、私たちはけっこう言葉遊びを楽しんでいることに改めて気づかされる。短詩型文芸にいたってはそれ自体が「言葉遊び」と言われることもしばしばである。
 短い言葉を組み合わせて楽しむ娯楽を、私たちはどうしてかくも愛するのか。不思議と言えば不思議だが、ときにクロスワードに熱中してしまう自分を考えると、「言葉」を組み合わせたり分解したりする遊びは、組めども尽きない泉のように思われる。持てる知識や記憶を総動員して、複雑な謎を、からんだ毛糸玉をときほぐすように少しずつ解いていく。最後にパッと展望が開けたときの快感は、高い山を制覇したのとそんなに変わらないようにすら思われる。
 そんな快感がどこにもいかずとも、今すぐに机上で得られてしまう。それは言葉遊びだけが可能にしてくれる醍醐味である。
 本書はそんな言葉遊びを集大成した本格的な総合辞典である。
「十八系統、四百九十余項目に日本語言葉遊びの用語を収め、そのほとんどに解説と用例を掲げてある。この収載規模は、この種の出版物にかつて見られない豊富なものである。用例や参考例などの多彩さも合わせ、遊辞苑という名の総合辞典に恥じないもの、と自負している」
 編者が語るとおり、実に多彩な言葉遊びの宇宙に圧倒される。そして、こうした言葉との付き合いが、日本にあっては古事記の昔から、西洋にあっては紀元前数世紀の古代ギリシャの時代から、人を魅惑し続けてきたことを知るにつけ、人間と言葉の係わり合いの深さを思わずにはいられない。
「言葉遊びは古代の呪術や神事に端を発し、言葉には超自然の霊力が乗り移っているとする言霊信仰に言葉を戯笑化しうるエネルギーが込められていた……祝詞はたぶんに神がかり的であると同時に、戯れのための文彩(修辞)・弄辞を存分に駆使している。祝詞から祭祀の部分を取り除くと、あとには言葉遊びのエッセンスが残るといっても過言ではないのである」
 どこから読んでも面白いが、短歌や俳句にかかわっている人なら、第一章の「折句系ことばあそび」は親しい世界であろう。
 編者はこんな逸話を紹介している。「藤原定家はあるとき〈冠折句〉に遊び、いくつもの隠句をもって春・夏・秋・冬から恋・雑にわたる部位をなし、計百首を一日足らずで詠んだ」。これを耳にした慈円はその翌日、冠が「あさかすみ……」となる百首を、所要時間4時間で詠じて対抗したそうだ。なんだか子どもじみているが、言葉遊びは言葉好きをそんなふうにしてしまう魔力を秘めている。それもまた言霊の一種かもしれない。
 推理小説好きなら第五章「アナグラム系ことばあそび」に関心があるかもしれない。名前のアナグラム化はよく知られている。もしやと思ったら、案の定、本書の編者名荻生待也も本名である内山幸雄をアナグラム化したものであるそうだ。アナグラムは西欧の言葉遊びかと思っていたが、どうして、日本語でもかなり遊べる。「アナグラム戯句」「一首万化詠」「一句両吟」「天狗俳諧」……やはり短詩系は言葉遊びと密着しているようだ。
 第8章は「洒落系ことばあそび」。おやじギャグなど駄洒落は今日もっとも親しい言葉遊びのジャンルかもしれないが、意外に奥が深い。「〈洒落〉は江戸文化を派手に飾った知的産物で、天明記(一七八一?八九)にはおりからの〈狂歌〉大流行とあいまって、普及が頂点に達した。気のきいた〈洒落言葉〉や〈軽口〉一つ言えぬようでは江戸っ子でない、という風潮すら生んでいる」「〈洒落〉の精神は、近代へ入っても衰えをみせず、さらに現代に生きるわれわれの心根にも、風流を解する命脈として息づいている」
 古典落語は〈洒落言葉〉の宝庫だそうだし、落語の落ちも言葉遊びであるそうだ。言葉遊びは笑いとも深いつながりがあるのだ。
 謎なぞ、早口ことば、文字遊び……興味の赴くままにひもといていくと、時間がたつのを忘れてしまう。巻頭には文字絵の例として、小野小町の歌仙絵や無筆重宝国尽案内、其のまゝ地口猫飼好五十三疋などの錦絵が収録されていて、いっそう興味をそそられる。 
 

〈本〉の彼方 3

澤田繁晴著
『輪舞 文学・美術散策』・評(審美社)
―「図書新聞」掲載

 文学・美術散策と銘打たれた本書だが、巻頭に「オノ・ヨーコ」が登場して意表をつかれた。「私が『オノ・ヨーコ』を取り上げるのは、ジョン・レノンとからめてではなく、オノ・ヨーコという単独の個人としてである」「私が感じるのは、オノの作品に漂っている不思議な『透明感』である。この透明感の根源を探るのが本文のテーマである」。
世間に流布しているヨーコのイメージとは一見ほど遠いと思われる「透明感」という切り口……のっけから著者のユニークな視点に惹きつけられた。
 『輪舞』というタイトルが示しているとおりこの巻頭の一文は三島由紀夫から深沢七郎へとつづき、さらに岡本かの子を経て梶井基次郎へと連鎖していく。この人選もなんともユニークである。作家たちの間を彩るように魯山人や広沢虎造、マリリン・モンロー、そしてセザンヌやマティス、ゴヤ、岡本太郎、棟方志功といった存在感たっぷりのアーティストたちが登場するのも魅力的で、これらの連鎖の底を流れる地下水脈のコクのある味わいをしばし堪能した。 
 著者は作家や画家たちへの既存の評価を丹念に引用しつつ、そこから独自の分析を試みていく。私たちが認識している作家たちの像のこれまで光を当てられることのなかった襞ひだの重なりや間隙から、新しい表情が浮かび上がってくるようだ。
 岡本かの子を取り上げた一文には「華やぐ命」とタイトルがつけられている。もちろん、『老妓抄』の「いよよ華やぐいのちなりけり」から採られているのだが、著者が注目するのは、かの子のまなざしである。
「かっと見開かれて、何かを、こちらを凝視している一方で、どこか茫漠、縹渺としたところがあり、その眼は、あちら、『過去世』をも同時に見ているのではないかと思われるところがある。時間的な深みを感じる所以である」。
 そして、かの子の『混沌未分』の中から「自分の一切を賽にして、投げて見るだけだ。そこから本当に再び立ち上がれる丈夫な命が見附かつて来よう」という一節を引き、さらには『家霊』の中から「『いのち』といふ文字には何か不安に対する魅力や虚無から出立する冒険や、黎明に対しての執拗な追求性―かういつたものと結び附けて考へる浪漫的な時代があった」という一文を引いて、「まなざし」と「いのち」を対応させてみせる。
 この「まなざし」は、さらに息子、太郎の視線について語る粟津潔の文章を呼び寄せる。「私には太郎の眼が、たえず、遥けき彼方をみているように映る」という粟津の文章に触発されつつ、著者は太郎が未来から過去へと遥けき視線を移し縄文土器に出会ったことを、かの子の『混沌未分』の主人公、小初と結びつけて考えるのだ。
 書物や美術作品を味わうとは、こうして出会いが出会いを呼ぶ豊穣さにほかならないだろう。
 豊かな連鎖のつらなりは、梶井基次郎をめぐる「闇の狩人」の論考に極まる。
 ここでのキーワードは「不吉な塊」である。この言葉は、梶井を読み解くキーワードとして日沼倫太郎や磯貝英夫、塩崎文雄、さらには桶谷秀昭といった多くの批評家が取り上げているものだそうだ。著者は彼らの文章を引用しつつ、この言葉は果たして虚無や闇の暗喩なのかと問い掛ける。
 「私がここで述べたいことは、『不吉な塊』が『えたいの知れない』、不可解で多義的なものであったとしたところで、その底には、非常に具体的な『痰』というものがこびりついているのではないであろうか、ということだけである」。つまり、「いかなる文学的な衣裳を纏っていようとも、梶井の文学の底流には『肺結核』という病気が、『こびりついた痰』のように横たわっているのではないかということである」
 死に至る病、肺結核という厳しい現実を見据えたときに梶井作品の「闇」はどのように迫ってくるのか。「白日さえもが闇であるという一元的な非在の世界」から「永遠の退屈」へ、そして「闇の世界内での止むに止まれぬ突進」から「呑気でいてやれ」という認識へと変貌していく梶井の作品の軌跡をたどりつつ、「『闇の絵巻』に突然あらわれた『呑気』という病気への対応方法は、凛冽な中、闇を切り裂いて突進しようとする梶井の意気込みが、肉体的に限界に達したことを自身が容認した段階でのものであると思う。『闘い』から『馴れ親しみ』への方向転換である。それは止むを得ない、苦渋に満ちた選択でもあったろう」
著者は、いずれの作家や画家の創作も生身の肉体と不可分ではありえないこと、そして生身の肉体はいわば美しい花を咲かせるための腐葉土のようなものであることを伝えたかったのかもしれない。そして、その腐葉土の下には凛冽な地下水脈がとうとうと流れ、人類の内部の海へとつづいていることを。

〈本〉の彼方 2

近江哲史著
『図書館に行ってくるよ―シニア世代のライフワーク探し』・評(日外アソシエ―ツ)
―「図書新聞」掲載

 本書を読み進めるうちに、子ども時代の図書館の記憶が甦ってきた。小学5年生のときに図書委員になった。本を整理したり、貸し出しカードにはんこを押したりするのが楽しく、誇らしかった。ボロボロの本を針と糸で修理する方法を教えてもらって、ちょっと専門職の気分だった。大好きな本がぎっしり詰まった薄暗くてちょっとかび臭い書庫、明るい日差しの満ち溢れた閲覧室……図書室は学校の中でも一番好きな場所だった。
 中学、高校、大学といま思い返してみても、学校の図書室と町の図書館だけははっきりと思い出すことができる。司書になりたいと夢みたこともあったっけ。仕事を持つようになってからは休日しか図書館に行けなくなったが、住いが変わるたびにまずは地元の図書館の場所を確認して、やっとその町に落ち着けたような気がしたものだ。 
 コンピュータでさまざまな情報の検索できるようになって、仕事がらみの資料探しのためにわざわざ図書館まで足を運ばなくても済むことも多くなったが、休日の図書館通いの楽しみを手放すわけにはいかない。私の場合は、新聞や雑誌で目に留まった本を探しに出かけることが多い。しかし、当てもなく本棚の間を歩き回るのもまた楽しい。誰の目にも留まらないような片隅で、何とも魅力的な本に出会って、それがきっかけで、著作を全部読んだ作家や家に買い揃えた作家も何人もいる。本書のタイトル、『図書館に行ってくるよ』は、まさに私が日常的に使っている合言葉なのである。
 本書は、副題に「シニア世代のライフワーク探し」とあるとおり、時間のできた退職後のシニア世代に向けて書かれたものであるが、図書館をめぐるさまざまな提案は、現役世代にもぜひ読んでほしい魅力的な視点に満ちている。
 図書館はブラッと出かけてのんびり新聞を読んだり、気に入った本を見つけてゆったり読書したりするためのありがたい場所だが、ただ受動的に利用するだけではもったいない。一歩踏み込んで「テーマ探しとライフワーク実現のために」図書館を積極的に活用することを著者は提案する。他人のあとをたどる「学習」から、自分の生涯のテーマの「研究」へと歩を進めるために図書館を積極的に活用すべきだと。
 たとえば、「自分大学」の構想を立てる。「読書」を中心に据えながら目標を決めて、一年目、二年目と進む。読むだけでなくレポートを書く。最後に卒業論文をまとめる。そのために図書館はなくてはならない、頼もしい存在である。
 だからこそ、図書館の選書、レファレンス業務、イベント企画などのあり方や活動のしかたへの注文も厳しい。利用者も受け手にとどまらずに、ボランティアで図書館の仕事に関わるべきだと呼びかける。
 著者は「図書館のオーナーは住民であるはずだ」と述べる。そして、森まゆみ氏の「図書館の運営は本好きによる地域NPOで行うべきだ」という意見に賛同する。私は知らなかったが、欧米でも日本でも「図書館友の会」というボランティア組織がつくられているそうだ。日本ではまだ動きがにぶいが、「アメリカではほとんどどこでも図書館友の会が地域の図書館を支持して、積極的な活動を行っている」そうだ。「図書館を自分たちのものとしてしっかり認識して、自分たちの力でこれを良くしていこうというパワーがみなぎっている」。図書館そのものの活動も活発で、老人養護施設や在宅障害者へのサービス、郵送による貸し出しサービスなども行っているという。
 そんな基盤を土台に著者は「ミニ図書館を街角にたくさんつくろう」とも提案している。「商店街の一軒、団地の中の空いた部屋一つ、公園の片隅にも一つ、さしあたりポストと同じ数程度というのがムリなら、交番の数ほどでもと言っておこうか」「日常の運営管理をする人を、本好きなボランティアにお願いする。(略)その人の個性に委ねて図書館に個別的な性格をもたせる」「ミニ図書館の管理を行う人は、通称としてでも『ミニ図書館長さん』の名を与えたい。よい意味で私立図書館の雰囲気をもった自由な小さい図書館があちこちにできあがれば、どんなに町は楽しくなるだろう」
「図書館のオーナーは住民である」という著者の言葉を借りれば、美術館も博物館も公園も、そして町もまた「オーナーは自分」なのだ。地域で暮らすこと、住民であることへの意識変革をも促す好著である。

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プロフィール

梶葉子

Author:梶葉子
読書のよろこびはなにものにもかえがたいものです。
私を実に実に遠くまで連れ去って
みえない世界を垣間見させ
そこに吹く風や漂う香りを感じさせてくれる
書物に感謝しつつ
ささやかな感想をしたためていきま

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