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家族をめぐって 4
森さと子著『おこらないで看とりの季節』・評(東京経済)
―「図書新聞」掲載
五十代も半ばを過ぎると、さまざまな死が周りを取り巻くようになる。肉親の死、友人、知人の死を経験するたびに味わう悲しみや辛さ……その積み重なりが、他人事のように遠くへ押しやっていた自らの死と向き合うことを教えてくれる。生者は、そうやって死を少しずつ自分のそばに手繰り寄せていく。
核家族化が進行し、結婚後の親との同居率はめっきり低下した。老いがすすんだとき、病を得たとき、死期が迫ってきたとき、家族頼みはできない。同時にこれまでのような家族の看とりが果たして最善なのかどうかを問われる時代でもある。介護保険制度がしっかりと本来の機能を果たしているとは言えない今日、私たちは家族頼みからアウトソーシングへの過渡期の中で揺れ動いている。
しかし、本書に描かれたような「友が友の終末期を看とる」というケースは稀ではないだろうか。それだけに、家族にしろ法にしろ、「制度」では担い切れない「看とり」の本質を私たちに突きつけてくる。
淳子は中学三年以来の著者の「大切な友」である。「人は私たちの仲を『無二の親友』と言う。しかし、私は『親友』という言葉を使わなかった。その言葉はあまりに一般的でしっくりこなかった。(略)私は『大切』という言葉が好きで、この言葉を使うときは、真心を込めて発するようにしている。淳子との間柄を、この言葉で愛情込めて発すると『大切な友』ということになる」
長い歳月をかけて培ってきた信頼関係という土台があるとはいえ、どちらも五十代半ばに差し掛かっている。著者は子どもたちが巣立って現在は東京で夫との二人暮し。自身は花師として活躍している。淳子は「シングルで一人っ子、両親は高齢で身体に不自由はあるが存命で、親類縁者も皆無ではない。淳子はこれらをふまえて、乳がんの手術はしたものの、再発を察知し、死期を悟り、自分の最期を私に頼みたいと願っている」
著者は夫に状況を説明しながら、京都の病院にいる淳子を看病しようと決意を固め、仕事を整理する。「今、一番大事なことは、大切な淳子の命を守ること」……そう言い切る著者に、夫は全面協力を約束する。五月の連休明けから、亡くなる八月二日まで、著者は淳子のマンションに住み、両親の世話をしながら毎日病院に通う。淳子が元気なうちに自身の死後のことを決めておいてもらおうと、心を鬼にして遺言を作成させる。医師と面談して抗がん剤の中止や延命措置についても踏み込んで話し合う。さまざまな医療の矛盾を、淳子に替わって受け止めていく。
「無我夢中で進んでいた道のり。苦しみ、あえぎながら泣いている自分がいた。できることしかできないが、できることはすべての力を出し切ってやるというのが私の持論だが、それ以上のことをやらねばならなかったその形相は、醜く歪んでいたかもしれない。〈もうあのときのような自分に、私は二度と出会いたくない…〉」
「心痛共感」を誓い合っていてもそれが不可能であることを、二人はよく知っていたにちがいない。死ぬ人の気持は、死にゆく本人以外には絶対にわからないのだから。それは友人だけではない。伴侶であっても親子であっても同様である。しかし、だからこそ、最期の局面では、それまでにどんな関係性を築き上げてくることができたか、それがいかにお互いに心底満足し信頼し合えるものであったか、つまりは、その出会いが人生でどれだけかけがえのないものであったか、それだけが結晶のようにお互いの心の中で発光しつづける。それが死出の道を照らす。
ときどき登場する著者の夫にも、心からのエールを送りたい。必死の形相で看とりをやり遂げた著者の背後には、常に著者を支える夫の存在があった。著者が心置きなく友の看病に専念できたのは、夫と二人で築いてきた関係性があればこそと推察される。淳子は最期に、著者に夫という存在のかけがえのなさを改めて教えてくれたともいえるだろう。
淳子は著者に「怒らないで聞いて」と切り出して「私はあと1ヵ月なんでしょ」と尋ねる。著者はこのとき、自分の不注意で淳子に余命を知られてしまったことを知る。本書のタイトルはそこから取られている。自らの痛恨事をタイトルに選んだところに、著者の万感がこめられているだろう。
これらのこともすべて含めて、「この経験は、淳子から私への最終のプレゼントだったのかもしれません。私はこの経験を宝物として、生涯忘れることはないでしょう」……著者がこうしたためるまでには三年という歳月が必要だった。
<看とりの季節>……それは人と人の出会いの不思議とかけがえのなさをかみ締める時空なのだと痛感させられる。
―「図書新聞」掲載
五十代も半ばを過ぎると、さまざまな死が周りを取り巻くようになる。肉親の死、友人、知人の死を経験するたびに味わう悲しみや辛さ……その積み重なりが、他人事のように遠くへ押しやっていた自らの死と向き合うことを教えてくれる。生者は、そうやって死を少しずつ自分のそばに手繰り寄せていく。
核家族化が進行し、結婚後の親との同居率はめっきり低下した。老いがすすんだとき、病を得たとき、死期が迫ってきたとき、家族頼みはできない。同時にこれまでのような家族の看とりが果たして最善なのかどうかを問われる時代でもある。介護保険制度がしっかりと本来の機能を果たしているとは言えない今日、私たちは家族頼みからアウトソーシングへの過渡期の中で揺れ動いている。
しかし、本書に描かれたような「友が友の終末期を看とる」というケースは稀ではないだろうか。それだけに、家族にしろ法にしろ、「制度」では担い切れない「看とり」の本質を私たちに突きつけてくる。
淳子は中学三年以来の著者の「大切な友」である。「人は私たちの仲を『無二の親友』と言う。しかし、私は『親友』という言葉を使わなかった。その言葉はあまりに一般的でしっくりこなかった。(略)私は『大切』という言葉が好きで、この言葉を使うときは、真心を込めて発するようにしている。淳子との間柄を、この言葉で愛情込めて発すると『大切な友』ということになる」
長い歳月をかけて培ってきた信頼関係という土台があるとはいえ、どちらも五十代半ばに差し掛かっている。著者は子どもたちが巣立って現在は東京で夫との二人暮し。自身は花師として活躍している。淳子は「シングルで一人っ子、両親は高齢で身体に不自由はあるが存命で、親類縁者も皆無ではない。淳子はこれらをふまえて、乳がんの手術はしたものの、再発を察知し、死期を悟り、自分の最期を私に頼みたいと願っている」
著者は夫に状況を説明しながら、京都の病院にいる淳子を看病しようと決意を固め、仕事を整理する。「今、一番大事なことは、大切な淳子の命を守ること」……そう言い切る著者に、夫は全面協力を約束する。五月の連休明けから、亡くなる八月二日まで、著者は淳子のマンションに住み、両親の世話をしながら毎日病院に通う。淳子が元気なうちに自身の死後のことを決めておいてもらおうと、心を鬼にして遺言を作成させる。医師と面談して抗がん剤の中止や延命措置についても踏み込んで話し合う。さまざまな医療の矛盾を、淳子に替わって受け止めていく。
「無我夢中で進んでいた道のり。苦しみ、あえぎながら泣いている自分がいた。できることしかできないが、できることはすべての力を出し切ってやるというのが私の持論だが、それ以上のことをやらねばならなかったその形相は、醜く歪んでいたかもしれない。〈もうあのときのような自分に、私は二度と出会いたくない…〉」
「心痛共感」を誓い合っていてもそれが不可能であることを、二人はよく知っていたにちがいない。死ぬ人の気持は、死にゆく本人以外には絶対にわからないのだから。それは友人だけではない。伴侶であっても親子であっても同様である。しかし、だからこそ、最期の局面では、それまでにどんな関係性を築き上げてくることができたか、それがいかにお互いに心底満足し信頼し合えるものであったか、つまりは、その出会いが人生でどれだけかけがえのないものであったか、それだけが結晶のようにお互いの心の中で発光しつづける。それが死出の道を照らす。
ときどき登場する著者の夫にも、心からのエールを送りたい。必死の形相で看とりをやり遂げた著者の背後には、常に著者を支える夫の存在があった。著者が心置きなく友の看病に専念できたのは、夫と二人で築いてきた関係性があればこそと推察される。淳子は最期に、著者に夫という存在のかけがえのなさを改めて教えてくれたともいえるだろう。
淳子は著者に「怒らないで聞いて」と切り出して「私はあと1ヵ月なんでしょ」と尋ねる。著者はこのとき、自分の不注意で淳子に余命を知られてしまったことを知る。本書のタイトルはそこから取られている。自らの痛恨事をタイトルに選んだところに、著者の万感がこめられているだろう。
これらのこともすべて含めて、「この経験は、淳子から私への最終のプレゼントだったのかもしれません。私はこの経験を宝物として、生涯忘れることはないでしょう」……著者がこうしたためるまでには三年という歳月が必要だった。
<看とりの季節>……それは人と人の出会いの不思議とかけがえのなさをかみ締める時空なのだと痛感させられる。
家族をめぐって 3
青地久恵著
『大工の神様』・評(編集工房ノア)
―「図書新聞」掲載
記憶の古層に埋もれている父母を掘り起こす作業は、自分と出会い直す旅でもあるだろう。二十年前に亡くなった著者の父は宮大工であった。著者はそのことを手がかりに過去への旅を開始する。
「押入れの棚から反物のように丸められた染みだらけの掛け軸が落ちてきた。くるくると巻かれた細い紐を解き広げて見ると、聖徳太子の立ち姿が描かれている。一瞬にして子どもの頃の正月が甦った」
父は毎年大晦日の夜にこの掛け軸を取り出して飾り、その下に墨壺を置いた。幼い頃、父から聖徳太子は大工の神様であること、墨壺は大工のいのちであることを教えられた。
父は釧路市で大工の神様といわれた宮大工の田島与一郎氏の弟子だった。田島氏は越後の出身で、越後大工はその腕前を全国に知られる存在だったらしい。
第一部は田島氏が残した日記を手がかりに父、由松氏の大工としての生き様に少しずつ光を当てていく。「二月一日ヨリ 由松弟子ニ取ル」「由松川湯ヘ上ル」……日記のところどころに出てくる父はわずか一行程度にすぎないが、そこから父と暮した日々がくっきりと立ち上がってくる。父ばかりではない。周辺の大工たちや施主たちとの関係が浮かび上がってきて、大工という非定住の職人集団の息づかいまで伝わってくるようだ。著者は法隆寺の宮大工、西岡常一氏らの本を読みながら、大工という職人集団の淵源に触れ、父がその流れを引いていることを誇らしく思う。
第二部には幼い頃のエピソードがつづられているが、途中まで読んで、「えっ」と立ち止まってしまった。
「昭和十七年、川湯で生まれた私はこの夫婦の養女になった。(略)父四十一歳、母三十八歳であった」
さらりと記すにとどめたところに著者の意思を感じた。父の仕事の後を辿り、さまざまな人々に会って話を聞きだす熱意、著者たち一家が暮した弟子屈町・川湯温泉の四季、父母との暮らし……抑制の効いた文章が、家族という絆の有り様を根底から問いかけてくる。
「なぜこんなことを覚えているのだろう。
遥か遠い時間の彼方に消えてしまったはずの無数のできごと。その中から選ばれて、行き続けている事柄もあるのだ。しかしそれは自分で選んだ訳でもなく、意志というものも及ばず、いつ甦るのか、それさえ定かでない。自分の記憶なのになんと不思議なことだろう」
父の姿が次第に見えてくるのに引き換え、母を辿るよすがはほとんどない。記述は少ないが、それだけにいっそう読者にその存在を印象づける。郷里の親族との連絡を絶ち、最後の肉親である兄が死んだときですら家を離れなかった母……心の中で過去を封印して生きた母とはどんな人だったのだろうか。
「母はだれにも語ることのできない悲しみを抱えて生きてきたのではないか。このことに気づくまでに、なんと多くの年月を要してしまったことだろう」「母が関市(郷里のー引用者注)を訪ねたという記憶もない。父も語らず、聴くこともできなかった。小学生の頃、人には語ることも聞くこともできない秘密のようなもののあることを肌身で知ったのである。仏壇の隅にひっそりと残された小さな写真。裏には母の字で、『昭和九年三月十二日・父上六十九歳でなくなった』と書かれていた」
心の中に終生、父を住まわせていた母に、現在の自分が重なっていく。
釧路の高校に通う十五歳の私のために、真冬の朝はやく玄関から五十メートルも先まで除雪して細い道をつける母の姿が、著者の脳裏に焼きついている。
「黒い影絵のようだった母の姿は、父や娘から遠く離れて、私たちの見知らぬどこかへ、道をつけているようにも見えるのだった」
父も母も、さまざまな断念と自分だけの道を心に抱きつつ日々を生きていたのであろう。
父母は川湯温泉の見晴らしのいい墓地に静かに眠っている。著者はそこに夫も葬ることになった。三人が眠る墓地に詣でる著者は心からくつろいでいるようだ。
娘がたどる父と母は、いまたっぷりとした物語を湛えて私たちの前に立っている。それはそのまま、私たちそれぞれの父母の姿に重なっていく。
『大工の神様』・評(編集工房ノア)
―「図書新聞」掲載
記憶の古層に埋もれている父母を掘り起こす作業は、自分と出会い直す旅でもあるだろう。二十年前に亡くなった著者の父は宮大工であった。著者はそのことを手がかりに過去への旅を開始する。
「押入れの棚から反物のように丸められた染みだらけの掛け軸が落ちてきた。くるくると巻かれた細い紐を解き広げて見ると、聖徳太子の立ち姿が描かれている。一瞬にして子どもの頃の正月が甦った」
父は毎年大晦日の夜にこの掛け軸を取り出して飾り、その下に墨壺を置いた。幼い頃、父から聖徳太子は大工の神様であること、墨壺は大工のいのちであることを教えられた。
父は釧路市で大工の神様といわれた宮大工の田島与一郎氏の弟子だった。田島氏は越後の出身で、越後大工はその腕前を全国に知られる存在だったらしい。
第一部は田島氏が残した日記を手がかりに父、由松氏の大工としての生き様に少しずつ光を当てていく。「二月一日ヨリ 由松弟子ニ取ル」「由松川湯ヘ上ル」……日記のところどころに出てくる父はわずか一行程度にすぎないが、そこから父と暮した日々がくっきりと立ち上がってくる。父ばかりではない。周辺の大工たちや施主たちとの関係が浮かび上がってきて、大工という非定住の職人集団の息づかいまで伝わってくるようだ。著者は法隆寺の宮大工、西岡常一氏らの本を読みながら、大工という職人集団の淵源に触れ、父がその流れを引いていることを誇らしく思う。
第二部には幼い頃のエピソードがつづられているが、途中まで読んで、「えっ」と立ち止まってしまった。
「昭和十七年、川湯で生まれた私はこの夫婦の養女になった。(略)父四十一歳、母三十八歳であった」
さらりと記すにとどめたところに著者の意思を感じた。父の仕事の後を辿り、さまざまな人々に会って話を聞きだす熱意、著者たち一家が暮した弟子屈町・川湯温泉の四季、父母との暮らし……抑制の効いた文章が、家族という絆の有り様を根底から問いかけてくる。
「なぜこんなことを覚えているのだろう。
遥か遠い時間の彼方に消えてしまったはずの無数のできごと。その中から選ばれて、行き続けている事柄もあるのだ。しかしそれは自分で選んだ訳でもなく、意志というものも及ばず、いつ甦るのか、それさえ定かでない。自分の記憶なのになんと不思議なことだろう」
父の姿が次第に見えてくるのに引き換え、母を辿るよすがはほとんどない。記述は少ないが、それだけにいっそう読者にその存在を印象づける。郷里の親族との連絡を絶ち、最後の肉親である兄が死んだときですら家を離れなかった母……心の中で過去を封印して生きた母とはどんな人だったのだろうか。
「母はだれにも語ることのできない悲しみを抱えて生きてきたのではないか。このことに気づくまでに、なんと多くの年月を要してしまったことだろう」「母が関市(郷里のー引用者注)を訪ねたという記憶もない。父も語らず、聴くこともできなかった。小学生の頃、人には語ることも聞くこともできない秘密のようなもののあることを肌身で知ったのである。仏壇の隅にひっそりと残された小さな写真。裏には母の字で、『昭和九年三月十二日・父上六十九歳でなくなった』と書かれていた」
心の中に終生、父を住まわせていた母に、現在の自分が重なっていく。
釧路の高校に通う十五歳の私のために、真冬の朝はやく玄関から五十メートルも先まで除雪して細い道をつける母の姿が、著者の脳裏に焼きついている。
「黒い影絵のようだった母の姿は、父や娘から遠く離れて、私たちの見知らぬどこかへ、道をつけているようにも見えるのだった」
父も母も、さまざまな断念と自分だけの道を心に抱きつつ日々を生きていたのであろう。
父母は川湯温泉の見晴らしのいい墓地に静かに眠っている。著者はそこに夫も葬ることになった。三人が眠る墓地に詣でる著者は心からくつろいでいるようだ。
娘がたどる父と母は、いまたっぷりとした物語を湛えて私たちの前に立っている。それはそのまま、私たちそれぞれの父母の姿に重なっていく。
〈こども〉のなかへ 4
岸英光監修・石川尚子著
『子どもを伸ばす共育コーチング
―子どもの本音と行動を引き出すコミュニケーション術』・評(つげ書房新社)
―「図書新聞」掲載
ビジネスの現場では「コーチング」がブームとなりつつあるのだそうだ。かんたんに言うと、経営者や管理職など部下をもって仕事をする人たちに、部下の眠っている能力を引き出す接し方、お互いに気持ちよく仕事をし高めあっていけるようなコミュニケーション術をコーチするということになるだろうか。
実務的なノウハウや、部下が上司に正しく評価してもらうためのノウハウではなく、上司が部下に接するためのヒューマンスキルをその道の専門家にコーチしてもらうという時代……人間社会は大変な隘路に踏み込んだものだと嘆息する。しかし、情報が氾濫し、価値観が多様化し、格差が拡大し、家族関係も変容しと、大激動の波に洗われているこの時代にあっては、自らが蓄えた経験や知識や考え方を、これまでのような固定化した組織感や上下関係に基いて展開していくだけでは、誰の心も開くことができないのもまた事実だ。
メールによるコミュニケーションが日常化し、人間対人間の生身の会話が置き去りにされていく時代。困難な状況をうつ病だ、アスペルガー症候群だと病気として命名することで、本質的な問題はどんどん置きざりにされていく時代。
こうした時代の激変の影響をもろに受けているのが、子どもたちだろう。
本書はビジネスの世界におけるコーチングの概念を、対大人の世界ではなく、子どもたちと向き合う教育の現場に持ち込んだらどうなるかという、教育現場への殴り込みのような(そういっては著者に怒られるだろうが)一書である。
学校や家庭でここに書かれているようなアプローチがなされていたら、おそらく今日のような陰惨なイジメや虐待、子どもたちの無気力・無関心といった事態はここまで悲惨な状況にはならなかったのではないかと思わせる。語り口は人間味にあふれ、実際の例がわかりやすく引かれているが、教育問題の本質に切り込んだ意欲的な内容になっている。
子どもは大人の鏡だとよく言われるが、そのとおりだろう。子どもたちがやる気を失い、自ら考えることを放棄し、学校を出たのちの人生になんらの期待も持たず、働く気力をなくしているのは、子どものせいではない。親や教師や周りの大人たちが、そして、大人がつくっている世の中が、そう思わざるを得ないように仕向けているのだ。
「『夢』を語ると、『もっと現実的なことを考えなさい』と言う大人が実に多いようです。そうすると、本当は『夢』があるのに、それは言ってはいけないもの、言っても仕方のないものと子どもたちはとらえてしまうのです。だから『わからない』といってごまかします。」
そこで「夢は叶うものと伝える」、子どもが一歩踏み出し行動を起し始めるために「否定形より肯定形で」「原因追求よりも解決構築」「心配よりも信頼」と、接し方を深めていく道筋がわかりやすく具体的に示されていく。
無気力・無関心を打破するキーワードとして登場するのが、「存在承認」である。仮によい結果を出していなくても存在を肯定的に認める。「相手を責める前にまず受け入れる」「相手からのアプローチにはどんなつまらないことでも必ず返答する」……つまり、恐らく大多数の大人がふだん子どもに接しているやり方と逆のことをしてみるということだ。
次に出てくる言葉は「傾聴」。「相手の思っていることを一度否定しないで全部聞いてみよう」「子どもをもっと信じてみよう」……その目的は、「子どもが自分で考え始める」ように導いていくことにある。
「答えは一つしかない」「正しい答えは誰かから与えられるもの」……これを逆転させて「答えは一つじゃない」「答えは自分で編み出すもの」という発想を子どもたちに持ってもらうためには、大人が受験体制も含めた学校制度や教育のあり方そのものをもう一度根底から見直すしかないだろう。「存在承認」と「傾聴」は、それほど深い問題を孕んでいる。
「コーチングでは、『人の中にはもともと目標を達成するための資源がすべて備わっている。コーチングはそれをサポートする』という説明をします。ですから、相手の中に『ある』というのが前提になります。残念ながら『ある』ようには見えない、とコーチ側が感じてしまうと、相手もそう思ってしまいます。(略)『ある』という視点で一人ひとりの子どもを見つめた時、可能性は無限に広がっていくのです。」
著者はそう語っているが、たとえ「コーチング」という言葉がなかったとしても、著者は相手を『ある』という視点で見つめ、向き合っていくことのできる人にちがいないと私は思う。
「自らの成長なくして、相手は決して心を開かないということも学びました。『可能性を秘めた存在として関わること』、これが『共に育つ』ということではないかと思っています。そして、『共に育つ』ところに教育の本当の価値があるのではないでしょうか。」
こんなふうに熱く思い、接してくれる教師や親がいなかったら子どもたちの未来はないのだ。
『子どもを伸ばす共育コーチング
―子どもの本音と行動を引き出すコミュニケーション術』・評(つげ書房新社)
―「図書新聞」掲載
ビジネスの現場では「コーチング」がブームとなりつつあるのだそうだ。かんたんに言うと、経営者や管理職など部下をもって仕事をする人たちに、部下の眠っている能力を引き出す接し方、お互いに気持ちよく仕事をし高めあっていけるようなコミュニケーション術をコーチするということになるだろうか。
実務的なノウハウや、部下が上司に正しく評価してもらうためのノウハウではなく、上司が部下に接するためのヒューマンスキルをその道の専門家にコーチしてもらうという時代……人間社会は大変な隘路に踏み込んだものだと嘆息する。しかし、情報が氾濫し、価値観が多様化し、格差が拡大し、家族関係も変容しと、大激動の波に洗われているこの時代にあっては、自らが蓄えた経験や知識や考え方を、これまでのような固定化した組織感や上下関係に基いて展開していくだけでは、誰の心も開くことができないのもまた事実だ。
メールによるコミュニケーションが日常化し、人間対人間の生身の会話が置き去りにされていく時代。困難な状況をうつ病だ、アスペルガー症候群だと病気として命名することで、本質的な問題はどんどん置きざりにされていく時代。
こうした時代の激変の影響をもろに受けているのが、子どもたちだろう。
本書はビジネスの世界におけるコーチングの概念を、対大人の世界ではなく、子どもたちと向き合う教育の現場に持ち込んだらどうなるかという、教育現場への殴り込みのような(そういっては著者に怒られるだろうが)一書である。
学校や家庭でここに書かれているようなアプローチがなされていたら、おそらく今日のような陰惨なイジメや虐待、子どもたちの無気力・無関心といった事態はここまで悲惨な状況にはならなかったのではないかと思わせる。語り口は人間味にあふれ、実際の例がわかりやすく引かれているが、教育問題の本質に切り込んだ意欲的な内容になっている。
子どもは大人の鏡だとよく言われるが、そのとおりだろう。子どもたちがやる気を失い、自ら考えることを放棄し、学校を出たのちの人生になんらの期待も持たず、働く気力をなくしているのは、子どものせいではない。親や教師や周りの大人たちが、そして、大人がつくっている世の中が、そう思わざるを得ないように仕向けているのだ。
「『夢』を語ると、『もっと現実的なことを考えなさい』と言う大人が実に多いようです。そうすると、本当は『夢』があるのに、それは言ってはいけないもの、言っても仕方のないものと子どもたちはとらえてしまうのです。だから『わからない』といってごまかします。」
そこで「夢は叶うものと伝える」、子どもが一歩踏み出し行動を起し始めるために「否定形より肯定形で」「原因追求よりも解決構築」「心配よりも信頼」と、接し方を深めていく道筋がわかりやすく具体的に示されていく。
無気力・無関心を打破するキーワードとして登場するのが、「存在承認」である。仮によい結果を出していなくても存在を肯定的に認める。「相手を責める前にまず受け入れる」「相手からのアプローチにはどんなつまらないことでも必ず返答する」……つまり、恐らく大多数の大人がふだん子どもに接しているやり方と逆のことをしてみるということだ。
次に出てくる言葉は「傾聴」。「相手の思っていることを一度否定しないで全部聞いてみよう」「子どもをもっと信じてみよう」……その目的は、「子どもが自分で考え始める」ように導いていくことにある。
「答えは一つしかない」「正しい答えは誰かから与えられるもの」……これを逆転させて「答えは一つじゃない」「答えは自分で編み出すもの」という発想を子どもたちに持ってもらうためには、大人が受験体制も含めた学校制度や教育のあり方そのものをもう一度根底から見直すしかないだろう。「存在承認」と「傾聴」は、それほど深い問題を孕んでいる。
「コーチングでは、『人の中にはもともと目標を達成するための資源がすべて備わっている。コーチングはそれをサポートする』という説明をします。ですから、相手の中に『ある』というのが前提になります。残念ながら『ある』ようには見えない、とコーチ側が感じてしまうと、相手もそう思ってしまいます。(略)『ある』という視点で一人ひとりの子どもを見つめた時、可能性は無限に広がっていくのです。」
著者はそう語っているが、たとえ「コーチング」という言葉がなかったとしても、著者は相手を『ある』という視点で見つめ、向き合っていくことのできる人にちがいないと私は思う。
「自らの成長なくして、相手は決して心を開かないということも学びました。『可能性を秘めた存在として関わること』、これが『共に育つ』ということではないかと思っています。そして、『共に育つ』ところに教育の本当の価値があるのではないでしょうか。」
こんなふうに熱く思い、接してくれる教師や親がいなかったら子どもたちの未来はないのだ。
旅・紀行から 1
文化庁編
『わたしの旅一〇〇選』・評(ぎょうせい)
―「図書新聞」掲載
本書は二〇〇五年八月に文化庁が公募した「わたしの旅〜日本の歴史と文化をたずねて」に応募された786件の旅プランをまとめた一冊である。一〇〇選に選ばれた大賞1プラン、特別賞9プランの詳細ほか、全応募作品のコース一覧、立松和平氏や平岩弓枝氏など審査員9名のエッセイも併載されていて、創意あふれる旅の指南書に仕上がっている。
河合隼雄(前文化庁長官)氏の「刊行によせて」を読むと、「『日本人はあんがい自分の国のことを知らない』『日本の歴史や文化はなかなか面白いのに、それをまったく知らず、海外旅行に熱中したりする』。こんなことを、小泉総理と話し合っているうちに、日本人が日本の歴史と文化をたずねる旅をもっとすればよいのに、ということになり」、公募に発展したとある。「観光ということがどうしても表面的になるのが残念で、私は『文化観光のすすめ』とか『観光の深化』などという雑文を書いたりして、単なる観光をこえた旅を推奨してきた」という河合氏の意見にわが意を得たりという人も多いのではないだろうか。
昨年夏、久々に母と妹と三人で瀬戸内に出かけた。いつもは人任せの旅プランを、宿の手配から電車の乗り継ぎまで一人でプランニングした。もし行ってみて電車が来なかったらどうしよう。旅館が予想とちがっていたら……と不安は尽きなかったが、電車と船を乗り継いで最初の目的地、宮島に着いたときは「ちゃんと乗り継げた!」と感動した。自分で立てたプランが現実になったときのインパクトは、お膳立ての整ったパックツアーとはひと味もふた味もちがうものである。二泊三日とはいえ、プランニングにはかなりのエネルギーを要した。それだけに、現地で想定外のことが起ったときもかえって新鮮で、そんな予想外の出来事のほうが印象に残っている。
私の場合は宮島と尾道に行ってみたい。あの旅館に母と妹を連れて行きたい……そんな単純な思いつきだけだったが、それをもう一歩進めて、もっと「テーマ」をはっきりさせた旅を計画できたら、さらに旅の楽しみは深まるだろう。地方自治体の財政破綻がさまざまに取りざたされているが、地方財源として、箱物や従来のパターンに頼らない、「観光の深化」がもっと見直されてしかるべきではないだろうか。
さて、おそらく旅の達人や滅法旅好きな人たちが応募したのであろうから、きっとユニークなプランが満載だろうとワクワクしながら本書をひもといた。
大賞は「“Japan”を訪ねる旅」と銘打たれた菅野淳一氏のプランである。英語では「漆器」を“Japan”という。「日本の歴史と文化をたずねる」というテーマに、真っ向から「Japan=漆器」をぶつけてきたところなど、実に斬新である。プランは十泊十一日、訪問先も沖縄から石川県までの6都府県と壮大な旅だが、菅野氏は「イギリスに訪問した折、お土産に漆器のスプーンを持参したところ大変喜ばれ、『漆器こそがまさに典型的な日本文化である』と言われたことがある」そうで、それがこのプランのきっかけになったと記されている。旅の対象者には漆器関連事業者をあげておられるが、“Japan”に触れる旅は一般の旅好きにとっても十分に魅力的である。
特別賞には「旧石器時代を体験する旅―オホーツクの古代遺跡を訪ねて」(北海道)「ひな街道を行く」(山形県・新潟県)「二〇世紀初頭、外国人建築家が見た日本をめぐる旅」(群馬県・東京都ほか)など、ユニークで面白そうなプランが目白押しだ。
わが郷里、秋田はどうかと頁を繰っていったら、あった、あった。「見どころ満載 多彩で味な、秋田の魅力、再発見!」(江口智子)……タイトルからしてうれしいではないか。
江口氏によれば「実際に行った秋田旅行があまりにすばらしく、大満足の旅だったので、この感動を一人でも多くの人に味わってもらいたいと思い、このプランを作成した。また、『秋田旅行で四泊五日』ということに、たいていの人がけげんな反応をするが、四泊五日では不十分なくらい、秋田の魅力がふんだんにあることを示した」とある。秋田県人を代表してお礼を言いたいくらいだ。
どんな地方にもそんな魅力がたくさんあるはず。本書を読んでいるうちに、しきりに旅心を誘われた。「日本を知る」ことは「自分を知る」ことでもある。さまざまな出会いがさらなる関心を呼び起こしてくれるだろう。まずは行動を起こさなくては!
『わたしの旅一〇〇選』・評(ぎょうせい)
―「図書新聞」掲載
本書は二〇〇五年八月に文化庁が公募した「わたしの旅〜日本の歴史と文化をたずねて」に応募された786件の旅プランをまとめた一冊である。一〇〇選に選ばれた大賞1プラン、特別賞9プランの詳細ほか、全応募作品のコース一覧、立松和平氏や平岩弓枝氏など審査員9名のエッセイも併載されていて、創意あふれる旅の指南書に仕上がっている。
河合隼雄(前文化庁長官)氏の「刊行によせて」を読むと、「『日本人はあんがい自分の国のことを知らない』『日本の歴史や文化はなかなか面白いのに、それをまったく知らず、海外旅行に熱中したりする』。こんなことを、小泉総理と話し合っているうちに、日本人が日本の歴史と文化をたずねる旅をもっとすればよいのに、ということになり」、公募に発展したとある。「観光ということがどうしても表面的になるのが残念で、私は『文化観光のすすめ』とか『観光の深化』などという雑文を書いたりして、単なる観光をこえた旅を推奨してきた」という河合氏の意見にわが意を得たりという人も多いのではないだろうか。
昨年夏、久々に母と妹と三人で瀬戸内に出かけた。いつもは人任せの旅プランを、宿の手配から電車の乗り継ぎまで一人でプランニングした。もし行ってみて電車が来なかったらどうしよう。旅館が予想とちがっていたら……と不安は尽きなかったが、電車と船を乗り継いで最初の目的地、宮島に着いたときは「ちゃんと乗り継げた!」と感動した。自分で立てたプランが現実になったときのインパクトは、お膳立ての整ったパックツアーとはひと味もふた味もちがうものである。二泊三日とはいえ、プランニングにはかなりのエネルギーを要した。それだけに、現地で想定外のことが起ったときもかえって新鮮で、そんな予想外の出来事のほうが印象に残っている。
私の場合は宮島と尾道に行ってみたい。あの旅館に母と妹を連れて行きたい……そんな単純な思いつきだけだったが、それをもう一歩進めて、もっと「テーマ」をはっきりさせた旅を計画できたら、さらに旅の楽しみは深まるだろう。地方自治体の財政破綻がさまざまに取りざたされているが、地方財源として、箱物や従来のパターンに頼らない、「観光の深化」がもっと見直されてしかるべきではないだろうか。
さて、おそらく旅の達人や滅法旅好きな人たちが応募したのであろうから、きっとユニークなプランが満載だろうとワクワクしながら本書をひもといた。
大賞は「“Japan”を訪ねる旅」と銘打たれた菅野淳一氏のプランである。英語では「漆器」を“Japan”という。「日本の歴史と文化をたずねる」というテーマに、真っ向から「Japan=漆器」をぶつけてきたところなど、実に斬新である。プランは十泊十一日、訪問先も沖縄から石川県までの6都府県と壮大な旅だが、菅野氏は「イギリスに訪問した折、お土産に漆器のスプーンを持参したところ大変喜ばれ、『漆器こそがまさに典型的な日本文化である』と言われたことがある」そうで、それがこのプランのきっかけになったと記されている。旅の対象者には漆器関連事業者をあげておられるが、“Japan”に触れる旅は一般の旅好きにとっても十分に魅力的である。
特別賞には「旧石器時代を体験する旅―オホーツクの古代遺跡を訪ねて」(北海道)「ひな街道を行く」(山形県・新潟県)「二〇世紀初頭、外国人建築家が見た日本をめぐる旅」(群馬県・東京都ほか)など、ユニークで面白そうなプランが目白押しだ。
わが郷里、秋田はどうかと頁を繰っていったら、あった、あった。「見どころ満載 多彩で味な、秋田の魅力、再発見!」(江口智子)……タイトルからしてうれしいではないか。
江口氏によれば「実際に行った秋田旅行があまりにすばらしく、大満足の旅だったので、この感動を一人でも多くの人に味わってもらいたいと思い、このプランを作成した。また、『秋田旅行で四泊五日』ということに、たいていの人がけげんな反応をするが、四泊五日では不十分なくらい、秋田の魅力がふんだんにあることを示した」とある。秋田県人を代表してお礼を言いたいくらいだ。
どんな地方にもそんな魅力がたくさんあるはず。本書を読んでいるうちに、しきりに旅心を誘われた。「日本を知る」ことは「自分を知る」ことでもある。さまざまな出会いがさらなる関心を呼び起こしてくれるだろう。まずは行動を起こさなくては!
〈本〉の彼方 3
澤田繁晴著
『輪舞 文学・美術散策』・評(審美社)
―「図書新聞」掲載
文学・美術散策と銘打たれた本書だが、巻頭に「オノ・ヨーコ」が登場して意表をつかれた。「私が『オノ・ヨーコ』を取り上げるのは、ジョン・レノンとからめてではなく、オノ・ヨーコという単独の個人としてである」「私が感じるのは、オノの作品に漂っている不思議な『透明感』である。この透明感の根源を探るのが本文のテーマである」。
世間に流布しているヨーコのイメージとは一見ほど遠いと思われる「透明感」という切り口……のっけから著者のユニークな視点に惹きつけられた。
『輪舞』というタイトルが示しているとおりこの巻頭の一文は三島由紀夫から深沢七郎へとつづき、さらに岡本かの子を経て梶井基次郎へと連鎖していく。この人選もなんともユニークである。作家たちの間を彩るように魯山人や広沢虎造、マリリン・モンロー、そしてセザンヌやマティス、ゴヤ、岡本太郎、棟方志功といった存在感たっぷりのアーティストたちが登場するのも魅力的で、これらの連鎖の底を流れる地下水脈のコクのある味わいをしばし堪能した。
著者は作家や画家たちへの既存の評価を丹念に引用しつつ、そこから独自の分析を試みていく。私たちが認識している作家たちの像のこれまで光を当てられることのなかった襞ひだの重なりや間隙から、新しい表情が浮かび上がってくるようだ。
岡本かの子を取り上げた一文には「華やぐ命」とタイトルがつけられている。もちろん、『老妓抄』の「いよよ華やぐいのちなりけり」から採られているのだが、著者が注目するのは、かの子のまなざしである。
「かっと見開かれて、何かを、こちらを凝視している一方で、どこか茫漠、縹渺としたところがあり、その眼は、あちら、『過去世』をも同時に見ているのではないかと思われるところがある。時間的な深みを感じる所以である」。
そして、かの子の『混沌未分』の中から「自分の一切を賽にして、投げて見るだけだ。そこから本当に再び立ち上がれる丈夫な命が見附かつて来よう」という一節を引き、さらには『家霊』の中から「『いのち』といふ文字には何か不安に対する魅力や虚無から出立する冒険や、黎明に対しての執拗な追求性―かういつたものと結び附けて考へる浪漫的な時代があった」という一文を引いて、「まなざし」と「いのち」を対応させてみせる。
この「まなざし」は、さらに息子、太郎の視線について語る粟津潔の文章を呼び寄せる。「私には太郎の眼が、たえず、遥けき彼方をみているように映る」という粟津の文章に触発されつつ、著者は太郎が未来から過去へと遥けき視線を移し縄文土器に出会ったことを、かの子の『混沌未分』の主人公、小初と結びつけて考えるのだ。
書物や美術作品を味わうとは、こうして出会いが出会いを呼ぶ豊穣さにほかならないだろう。
豊かな連鎖のつらなりは、梶井基次郎をめぐる「闇の狩人」の論考に極まる。
ここでのキーワードは「不吉な塊」である。この言葉は、梶井を読み解くキーワードとして日沼倫太郎や磯貝英夫、塩崎文雄、さらには桶谷秀昭といった多くの批評家が取り上げているものだそうだ。著者は彼らの文章を引用しつつ、この言葉は果たして虚無や闇の暗喩なのかと問い掛ける。
「私がここで述べたいことは、『不吉な塊』が『えたいの知れない』、不可解で多義的なものであったとしたところで、その底には、非常に具体的な『痰』というものがこびりついているのではないであろうか、ということだけである」。つまり、「いかなる文学的な衣裳を纏っていようとも、梶井の文学の底流には『肺結核』という病気が、『こびりついた痰』のように横たわっているのではないかということである」
死に至る病、肺結核という厳しい現実を見据えたときに梶井作品の「闇」はどのように迫ってくるのか。「白日さえもが闇であるという一元的な非在の世界」から「永遠の退屈」へ、そして「闇の世界内での止むに止まれぬ突進」から「呑気でいてやれ」という認識へと変貌していく梶井の作品の軌跡をたどりつつ、「『闇の絵巻』に突然あらわれた『呑気』という病気への対応方法は、凛冽な中、闇を切り裂いて突進しようとする梶井の意気込みが、肉体的に限界に達したことを自身が容認した段階でのものであると思う。『闘い』から『馴れ親しみ』への方向転換である。それは止むを得ない、苦渋に満ちた選択でもあったろう」
著者は、いずれの作家や画家の創作も生身の肉体と不可分ではありえないこと、そして生身の肉体はいわば美しい花を咲かせるための腐葉土のようなものであることを伝えたかったのかもしれない。そして、その腐葉土の下には凛冽な地下水脈がとうとうと流れ、人類の内部の海へとつづいていることを。
『輪舞 文学・美術散策』・評(審美社)
―「図書新聞」掲載
文学・美術散策と銘打たれた本書だが、巻頭に「オノ・ヨーコ」が登場して意表をつかれた。「私が『オノ・ヨーコ』を取り上げるのは、ジョン・レノンとからめてではなく、オノ・ヨーコという単独の個人としてである」「私が感じるのは、オノの作品に漂っている不思議な『透明感』である。この透明感の根源を探るのが本文のテーマである」。
世間に流布しているヨーコのイメージとは一見ほど遠いと思われる「透明感」という切り口……のっけから著者のユニークな視点に惹きつけられた。
『輪舞』というタイトルが示しているとおりこの巻頭の一文は三島由紀夫から深沢七郎へとつづき、さらに岡本かの子を経て梶井基次郎へと連鎖していく。この人選もなんともユニークである。作家たちの間を彩るように魯山人や広沢虎造、マリリン・モンロー、そしてセザンヌやマティス、ゴヤ、岡本太郎、棟方志功といった存在感たっぷりのアーティストたちが登場するのも魅力的で、これらの連鎖の底を流れる地下水脈のコクのある味わいをしばし堪能した。
著者は作家や画家たちへの既存の評価を丹念に引用しつつ、そこから独自の分析を試みていく。私たちが認識している作家たちの像のこれまで光を当てられることのなかった襞ひだの重なりや間隙から、新しい表情が浮かび上がってくるようだ。
岡本かの子を取り上げた一文には「華やぐ命」とタイトルがつけられている。もちろん、『老妓抄』の「いよよ華やぐいのちなりけり」から採られているのだが、著者が注目するのは、かの子のまなざしである。
「かっと見開かれて、何かを、こちらを凝視している一方で、どこか茫漠、縹渺としたところがあり、その眼は、あちら、『過去世』をも同時に見ているのではないかと思われるところがある。時間的な深みを感じる所以である」。
そして、かの子の『混沌未分』の中から「自分の一切を賽にして、投げて見るだけだ。そこから本当に再び立ち上がれる丈夫な命が見附かつて来よう」という一節を引き、さらには『家霊』の中から「『いのち』といふ文字には何か不安に対する魅力や虚無から出立する冒険や、黎明に対しての執拗な追求性―かういつたものと結び附けて考へる浪漫的な時代があった」という一文を引いて、「まなざし」と「いのち」を対応させてみせる。
この「まなざし」は、さらに息子、太郎の視線について語る粟津潔の文章を呼び寄せる。「私には太郎の眼が、たえず、遥けき彼方をみているように映る」という粟津の文章に触発されつつ、著者は太郎が未来から過去へと遥けき視線を移し縄文土器に出会ったことを、かの子の『混沌未分』の主人公、小初と結びつけて考えるのだ。
書物や美術作品を味わうとは、こうして出会いが出会いを呼ぶ豊穣さにほかならないだろう。
豊かな連鎖のつらなりは、梶井基次郎をめぐる「闇の狩人」の論考に極まる。
ここでのキーワードは「不吉な塊」である。この言葉は、梶井を読み解くキーワードとして日沼倫太郎や磯貝英夫、塩崎文雄、さらには桶谷秀昭といった多くの批評家が取り上げているものだそうだ。著者は彼らの文章を引用しつつ、この言葉は果たして虚無や闇の暗喩なのかと問い掛ける。
「私がここで述べたいことは、『不吉な塊』が『えたいの知れない』、不可解で多義的なものであったとしたところで、その底には、非常に具体的な『痰』というものがこびりついているのではないであろうか、ということだけである」。つまり、「いかなる文学的な衣裳を纏っていようとも、梶井の文学の底流には『肺結核』という病気が、『こびりついた痰』のように横たわっているのではないかということである」
死に至る病、肺結核という厳しい現実を見据えたときに梶井作品の「闇」はどのように迫ってくるのか。「白日さえもが闇であるという一元的な非在の世界」から「永遠の退屈」へ、そして「闇の世界内での止むに止まれぬ突進」から「呑気でいてやれ」という認識へと変貌していく梶井の作品の軌跡をたどりつつ、「『闇の絵巻』に突然あらわれた『呑気』という病気への対応方法は、凛冽な中、闇を切り裂いて突進しようとする梶井の意気込みが、肉体的に限界に達したことを自身が容認した段階でのものであると思う。『闘い』から『馴れ親しみ』への方向転換である。それは止むを得ない、苦渋に満ちた選択でもあったろう」
著者は、いずれの作家や画家の創作も生身の肉体と不可分ではありえないこと、そして生身の肉体はいわば美しい花を咲かせるための腐葉土のようなものであることを伝えたかったのかもしれない。そして、その腐葉土の下には凛冽な地下水脈がとうとうと流れ、人類の内部の海へとつづいていることを。



