2017-07

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物語のなかへ19

泉りょう 著『迦陵頻のように』(編集工房ノア)
―「図書新聞」掲載

 五つの短編が収められている。それぞれの主人公は人生の後半にさしかかった、五十代とおぼしい女性たちだ。同世代の多くの女性たちが多かれ少なかれ抱え込んでいるに違いない心の暗部が主人公たちに仮託されている。私自身もそんな一人として共感をもって読み進めた。
 家族の離散や死別などの変化に加えて個体としての老いが容赦なく襲ってくる五十代。対の関係性は空気のような存在になるどころか微妙な歪みや亀裂をあちこちに生じさせていく。生物的な産む性とジェンダーとしての性を合わせもつ女性にとって、老いと折り合いをつけて生きていくことはたやすいことではない。本書の主人公たちが感じている満たされなさや淋しさ、取り返しのつかなさは、老いへ向かっていく中でいかに対の関係性を捉えなおし、また深めていけるかを裏側から問うている姿とも言えるだろう。
 触れようとするとたちまち日常性の中に霧散して行ってしまう心の翳りやゆらぎを、作者は生活のディテールを通じてくっきりと浮かび上がらせていく。
 たとえば「三伏の候」の一人暮らしのミチルの朝のひととき。「毎朝、テレビの画面が立ち上がるこの瞬間、ミチルの胸はざわつく。このハンサムなアナウンサーが、いつもの顔で、『今日で世界は終わりました』と、告げるのではないかと、思うのだ。このアナウンサーならば、どんなニュースも、爽やかに涼やかに伝えてくれることだろう」。世界と対峙するときのミチルの孤独感はこんなふうに私たちに手渡される。
 「玉の緒」では居酒屋のカウンターに男と並んでいる会話の合間にこんな描写が挿入される。「憮然としながら、理子は煮付けた里芋に箸を伸ばした。煮崩れる直前で火からおろした里芋は、きちんと面取りされた包丁跡を残していた。気持ちよく、すうっと箸が通った」。ここで理子は里芋の煮付けを男の心を取り出して味わうかのように味わっている。
 「三伏の候」のミチルは着物の派遣販売員。両親を見送ったのち家を整理して五十歳も半ばを過ぎてからローンを組んでマンションを買う。着物は女性を魅了してやまないものだが、愛着が深ければ深いほどに情念の深みへと誘う悪魔のような存在でもある。着物を仲立ちにした女同士のからまりあうような駆け引きは「三伏」の暑さの中でえんえんと続いていくようだ。
 「迦陵頻のように」の唱子は大学の卒論の指導をしてくれた歳の離れた教官と結婚する。長い結婚生活を経て、いまは深まる夫の老いを覚めた目で見据えている。夫の死後に見た迦陵頻の舞に、唱子は夫が少年だったときの姿を重ね、深夜のコンビニで出会った少年を重ね、自身の体内におこっているかもしれない兆しに耳を澄ます。
 「玉の緒よ」の理子は同僚の妻子ある教師と式子内親王を通じて親しくなる。二人とも式子内親王に惹かれているが、理子は式子内親王が死の床で会うことを熱望した法然がついに彼女のもとを訪れなかったことを許しがたいと言う。しかし男は、行かなかった法然に与する。二人の思いのベクトルは正反対の方向に向かっていく。
着物、迦陵頻、式子内親王……他の二編も合わせ、どの物語にも魅惑的な触媒が配置されていて主人公たちの人生と反応しながら、対の関係、家族の関係をあぶりだしていく。選ばれた触媒はいずれもそれぞれの女性の造形と拮抗していて、作品の奥行を深めている。
 あとがきには「これらの執筆時期は、私の五十代の十年間にほぼ重なります。五十代は女のターニングポイントなのかもしれません。私には、とても充実した、面白い十年間でした。/今年還暦を迎えますが、今私は、少女の頃のように、軽やかで自由な気がしています」と書かれている。
 親しい者との死を経験し迫りくる老いを見据えつつ、今が「少女の頃のように、軽やかで自由」と言う著者のその軽やかな心持ちが、作品の中の女性たちの意志的なまなざしにあらわれていて、暗さの底を突き抜けていこうとする明るさを感じさせる。

〈本〉の彼方 5 

学校法人 神奈川大学広報委員会 編『17音の青春 2012 五七五で綴る高校生のメッセージ』
(NHK出版)
―「図書新聞」

 高校生と俳句といえば、全国の高校生たちが松山市で学校別に競い合う「全国高等学校俳句選手権大会」(略称・俳句甲子園)が有名で、いまや夏の風物詩となった感がある。現在活躍する若手俳人の多くが俳句甲子園出身であると聞く。俳句人口は高齢化してしまったかもしれないが、こうしたチャンネルを通じて、古い結社組織にとらわれず俳句という形式そのものの魅力に直接的にひきつけられながら俳句をつくろうとする若者たちが生まれていることはすばらしいと思う。それこそ、俳句という詩の器の生命力の証しでもあるだろう。
 俳句甲子園がスタートしたのと同じ1998年に神奈川大学創立七十周年を記念して創設されたのが「神奈川大学全国高校生俳句大賞」である。毎回受賞作品は一冊の本にまとめられ、本書はその第一四回目に当る。
俳句甲子園が学校別の対決であるのに対して、こちらはあくまでも個人参加。三句を応募して作品の成果を競い合う。
 毎年九月で締め切り、十二月に受賞作品の発表がある。今回は大震災の年でもあり応募数の減少が懸念されたが、前年度より千五百通も多い1万1000通を越えたそうだ。最優秀賞受賞作品五名、入選作品六十五名、そして一句入選作品が二十頁にわたって掲載されている。 
 選考委員は宇多喜代子、大串章、金子兜太、復本一郎、黛まどかの五氏。本書には欠席した兜太氏をのぞく四氏による選考座談会と五氏の講評、村井丈美氏と山口優夢氏による入選作品の寸評、そして一句入選作品については歌人の栗木京子氏が文章を寄せている。
 もっとも多感な時期である十代後半に歳時記や俳句形式と出会った高校生たちの衝撃や共感はどんなものだったのか。本書の作品を通じてそのときめきを追体験することができる。初々しい作品があるいっぽうで、そんなにうまくまとめないでと声を掛けたくなるような出来上がった感のある作品も見受けられる。
 最終選考に残った十一人の候補者の中から五名が大賞を受賞したが、私は金子兜太が最優秀作品に押した三人のうちの一人、青木智さん(開成高校二年、当時)の次の作品に最も惹かれた。

  麦秋の人は待人だと思ふ
  麦秋やトロンボーンを空へ向け
  麦秋のタペストリーの鳥の青

 作者は「今、改めて自分の句を見たときに、(略)私も何かを待っているのかもしれないと、ふとそう感じました」と語る。自分が産み落とした一句を通じてさらに深く自分と出会う……それこそ俳句ののぞむところだろう。
金子兜太はこんな文章を寄せている。
 「(略)俳句の伝統については、私は『詩形一本』、それ以外はすべて属性と答えてきた。この最短定型が伝統の本体で、季語は約束であり、俳諧と言われてきたそのほかの内容も、この形式が生み出した属性(独特の、貴重な属性)と言いつづけてきた。従って、五・七・五の音律と切字を十分に活用することによって、じつに豊富な内容を簡潔に表現することができると確信している。/諸君、俳句を自由に駆使されよ」。
 こうしたエールに送られて俳句のとば口に立った若者たちが、自分にしかつくれない一句を目指してどんなふうに俳句の森へと踏み込んでいくのか、祈るような気持ちで読み終えた。
最後に思わず立ち止まってしまった刺激的な作品の中からいくつか挙げておこう。

  不揃ひのビーズを通す星祭 高瀬早紀
  鉛筆を尖らせ夏を描いてみる 品川由衣
  捕虫網木々の匂いに強く触れ 田頭理沙
  生まれれば命名されてサングラス 若藤礼子
  精神の自由メロンの丸くあり   同
  無くし物写真の中に見つけたり 実川栞里
  土産物滝の空気を含ませて 今田京介
  夏蜜柑雨後の明るさもて売らる 山口萌人
  黒板に少し涼しき風が吹く 上垣佳可

物語のなかへ18

キム・ジュンヒョク 著・波田野節子、吉原育子 訳『楽器たちの図書館』
(クオン)
―「図書新聞」掲載

 韓国で刊行された書籍を日本語に翻訳し出版している韓国専門出版社のクオンが刊行を開始したシリーズ『韓国の新しい文学』の第二弾が本書である。
 三十一歳の著者、キム・ジュンヒョクの日本で出版されるはじめての短編集である。そして、私にとっては初めて読む韓国作家の小説ということになる。収められた八つの作品はいずれもみずみずしくそしてどこか硬質で、翻訳の文体もあるのかもしれないが無国籍的な雰囲気を漂わせていた。植民地時代の記憶のトラウマにことさら注意深くある必要もないのだと思うと、李良枝や柳美里の小説を読んできたものの一人として改めて感慨を禁じえなかった。
 訳者の一人、波多野節子氏があとがきで本書の背景や翻訳出版の事情を詳しく述べているので、そのあたりはあとがきに譲り、さっそく本書の作品世界に踏み込んでみよう。
本書の冒頭には作者から読者へのメッセージがおかれている。
 「この短編集は僕からみなさんに贈る録音テープです。テープには全部で八曲の歌が録音されています」「それでは、みなさんのカセットデッキの青い再生ボタンを押して、僕が録音した音を聴いてみてください」
 今の韓国の若者の文化状況は日本とほとんど変わらないとすると、自分の作品をあえて「カセットテープ」として読者に差し出すところに、著者の一つの意思を感じる。カセットテープの青い再生ボタンを押す……このきわめてマニュアルな動作が、八つの短編に向き合うための基本姿勢だと作者は言っているのだ。
カセットテープといういまやノスタルジックな遺物と化した道具(その背後には本がほのみえる)に愛惜を感じるだけでなく、現代を生きる人間の心を託す器として大切にしたいと真摯に考えているのだ。デジタル化が極限まですすんだときの人間の心の荒廃に敏感な人なのだと思う。
 アナログからデジタルへという激しい変化を真っ向から浴びているものの一つに「音」が上げられるだろう。その意味で作者が音をテーマに選んだことは大変に意図的である。
 音には形がない。存在してもたちまち消えてしまう、まるで心のように。太古の時代から変らない、音のもつこの原始的な力がギターやレコードやオルゴールや電話やパソコンとともにつづられていく。
 八つの小説はすべて一人称で書かれている。
 電気製品のマニュアルを文学へと昇華しようと試みる僕(『マニュアルジェネレーション』)、楽器店でアルバイトをしながら、店に並ぶ楽器の音をコンピュータでサンプリングした〝楽器の音ジュークボックス〟をつくる僕(『楽器図書館』)、若者Bからエレキギターの手ほどきを受けているうちに、エレキの波動?で心臓がおかしくなりやめてしまう僕(『僕とB』)、そしてきわめつけは音痴の友人Dの公演をプロデュースする「僕」(『調子っぱずれのD』……こうして並べてみると、音との向き合い方にいずれも共通点があることに気づかされる。
いずれの「僕」も現実の社会ではちょっと異端。ビジネスによる自己実現を当たり前のこととして受け止めることに生きにくさを感じている。そして、そこで諦めるのでなく、ひそかに風穴をあけようとしている。本人にはそんな積極的な意志はないのだけれど。
 おおげさな言い方をすれば、資本主義のどんづまりの社会を生きながら、ポスト物質文明に向かって無意識に触手を伸ばしている人間とでも言ったらいいだろうか。
 圧倒的なビジネス優先社会の中で敗者として葬り去られていく人々があるいっぽうで、ささやかだけれどかけがえのない居場所をつくって、大事なものを守ろうとしている人々がいる。
複雑な電気機器に背を向けるのでなく、無味乾燥なマニュアルに命を吹き込み道具との付き合い方を深化させようとする「僕」は、消費社会の次にやってくるだろう世界の予感をはらんでいる。エレキギターに心臓をやられて一時遠ざかった「僕」は、Bという若者を通じて再びエレキギターを手にとってみようとする。アコースティックギターに戻るのでなく、再びエレキに向かおうとする「僕」の姿もまた暗示的だ。
 楽器は音を発して私たちを慰謝し刺激してくれるが、使い手はあくまで人間。その人間は自然の一部であり、どこまでいってもアナログであることに自覚的であり続けるのは、意外にむずかしい。だから、この小説の主人公たちの存在が光る。未来を照らす。

物語のなかへ17

赤坂香津於 著『盆太鼓・他―赤坂香津於短編集』
(早稲田出版)
―「図書新聞」掲載

 本書に収録されている六つの短編のうち五編は一九六五年から六六年末までに、すなわち著者が三十代後半に発表したものである。それに二〇一一年に書き下ろした「立ち入り禁止」を加えて一冊にまとめられている。
この新作には次のような著者の前書きが添えられている。
 「日米戦争が終結して六十五年以上も経った今では、戦後にこんな事実があったことなど知るよしもない人が多くなった。そこでこの作品は、当時の世俗の一面を正しく知らしめるため、フィクションを入れずに書いた」
作者が自らのバックグラウンドを知ってほしいという思いが伝わってきて、まずこの作品から読み始めた。
 青山(著者のことだろう)は秋田県鹿角盆地に位置する村の出身だが、二十三歳のときに妻子と青森県三沢に移り、画才を買われて基地で働くようになる。やがて自分の店をやりたいという思いが強くなり、温めてきたイメージをもとに米兵相手のしゃれたバーを開く。店のインテリアやモダンジャズと映画音楽を流すセンスのよさが評価されて、青山の店は品のいいエリートたちが集まる場所になっていく。
 この青山の手腕は土地のヤクザの親分にも買われて一目置かれる存在になる。その後、若い米軍将校夫妻がやっていたクラブを譲り受け、さらに事業を拡張していく……青山は基地という特殊な場所で、基地のアメリカ人、土地の日本人と親密な交友関係を結んでいく。
 戦争や敗戦、戦後の占領下の日本人の生活は小説家たちの重いテーマとなってさまざまな作品が書かれていったが、いっぽうでこんな積極的な生き方もあったのだと驚いた。
 十代後半で終戦を迎えた青山、すなわち著者は、それを強く意識したかどうかわからないが、アメリカにも日本にも、つまり「国家」というものに組せず、「人間」だけを相手にするという生き方を終生貫き通した人物なのにちがいない。
 五十年近く前に書かれた他の五編は舞台も時代もバラエティに富んでいるが、そんな著者の率直無類な人生への姿勢から掬い取られた、情感あふれる物語である。
 東北地方の寒村を舞台にした「盆太鼓」に私はもっとも惹かれた。
 大の馬好きで馬のハヤテを乗り回してばかりいる青年栄吉は、農作業を少しも手伝わないために父親と不仲になり、祖母と厩のある母屋で暮している。盆太鼓の指導で隣町まで赴いた栄吉は、その夜友だちからもらった鱈を手土産に、父と仲直りしようと父の家を訪れる。しかし、酒が入っていたばかりに喧嘩になり、かっとなった父は栄吉を薪でなぐって死にいたらしめてしまう。
 その死をハヤテは母屋にいて察知し、祖母を現場へと連れて行く。ハヤテは栄吉を思って涙を流し、葬式のときもハヤテはその死を悼んで前脚でしきりに地面をかく。ハヤテは青年の心の友であり、死に赴く青年の魂を乗せて天上へと運んでいく天馬でもあった。
 いっぽう、青年の母は恐山にイタコをたずね口寄せには興ざめするものの、帰りの車中の夢の中で息子に再会する。母自身がイタコと化してしまったのだ。そんな母は踊りの名手でもあったが、数年後のお盆のころ、敬老会で踊りを披露した直後に舞台で倒れてしまう。舞台に駆け上がってくる医者のスリッパの音、「イトはそれを遠のく意識の中で、馬が駆けてくる蹄の音に聞いていた」
ハヤテも同じ時刻に息を引き取ったと物語は結ばれている。
どこか遠野物語を髣髴させるような民話的な世界であるが、父親の後悔、母や祖母、弟の切ない思いがこまやかに行きかって、実はこんな家族と馬の生活がついこの間まで私たちの暮しそのものであったことをこの物語は私たちに思い起こさせる。
 もくもくと先祖伝来の土地を耕す人々ではなく、農作業をせず馬を乗り回してばかりいる青年、踊り上手の母の血を引き、太鼓が上手で他の村にまで指導にいく青年と馬を著者は物語の主軸に据えた。
友の誘いに応じてさっぱりと故郷を離れ、米軍基地のそばに独力で店を開き、米兵とも土地のヤクザとも友好関係を結んでいく著者は、もしかしたらそんな青年の末裔といえるかもしれない。人間の魂の物語は、そんな末裔たちによってこそ紡がれていくものなのだと思った。

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物語のなかへ16

立野正裕 著『世界文学の扉をひらく 第三扉 奇怪なものに遭遇した人たちの物語』
(スペース伽耶)
―「図書新聞」掲載

 本書は著者が講師をつとめる本郷文化フォーラム・ワーカーズ・スクールでの文学講座をもとに編集したシリーズ第三作目にあたる。
 取り上げた五つの作品は、著者が選んだ「奇怪なものに遭遇した人たちを描いた物語」のベスト・ファイヴである。
 このテーマについて、著者は「奇怪なもの、または奇怪なものを語った物語は、むかしからわたしたちの心を深くつかんできた。しかし語られるそのものは、わたしたちの外部に存在するのであろうか。それとも内部に潜むのであろうか。いずれにしてもそれはわたしたちの前に不意に出現する。事態に直面して人はさまざまに反応せざるを得ない。そのとき、人間とはどういう存在であるか、どういう存在であり得るかが、いやおうなしに照らし出される」(まえがき)と述べている。
 前二作につづき本書も各章が「作品紹介」「対話」「作者略歴」の三部構成になっている。「対話」は講師と講座に出席しているメンバーたちの間で繰り広げられる読後の感想のやりとりであるが、これがすこぶる面白い。作品を読んで感想を披瀝し合い論じ合うということは、その人のそれまで生きてきた人生を語ることでもあるのだなと感じ入ってしまった。
 それぞれの作品が丹念に論じられていく。いずれのやりとりも丁々発止で面白いのだが、第二章「ドアの向うに立って」の『猿の手』はそのディスカッションが思いがけない方向に伸びていって、語り合うことのダイナミズムを感じさせられた。
 この作品の作者はロンドン生まれのW・W・ジェイコブズ。恐怖小説の作者として知られ、中でもこの作品がもっとも有名なものだという。ミイラ化した猿の手はインドから持ち帰られたもので、願いごとを三つ叶えてくれる、いわば打ち出の小槌のようなものなのだが、その最後の願いが工場で機械に挟まれて死んだ息子の甦りに使われようとすることで、この小説の「恐怖」が生まれる。 
 ディスカッションは、ドアの向こうに立っている息子はどんな姿なのかということに絞られていく。死者のむごたらしい姿を想像して、そこに佇むのみの人に対して、著者は古事記のイザナギが黄泉の国へイザナミを訪ねる物語を呈示しつつ、「物語で暗示されている部分が置かれている文化的な連関に思いをいたして、その連関性を可能にしている要素を読み抜いて行けば、その物語の背景からさらに大きな物語が立ち上がってくる可能性があるのです」と発言する。   
 するとそれに促されるように、ある人がキリストの復活を想起する。つづいて話題はキリストの復活の際の脇腹の傷跡、そこから左右をめぐる東西の文化論へと進展。さらにダンテの『神曲』やシェイクスピアの『ハムレット』『マクベス』、ゲーテの『ファウスト』に描かれる死者の姿、埴谷雄高のとらえたノートルダム寺院の聖ドニ像などへと連鎖していき、東西の死生観の違いへと関心がさらに深まっていく。
 一冊の恐怖小説をめぐって論じ合ううちに関心の触手が生死の深みに伸びていき、議論に参加したそれぞれのメンバーが、それぞれの勝手な思い込みから一歩踏み込んだ場所へと歩を進めていく様子が手にとるようにわかる。
その他の章で取り上げられている作品を上げておくと、第一章は魯迅作『眉間尺』、第三章はJ・G・バラード作『溺れた巨人』、第四章はヨナス・リー作『エリアスとドラウグ』、第五章はウォートン作『あとになって』。
 あとがきによると、本書の副題「奇怪なものに遭遇した人たち」は、一年前に収録する五作品を決定したときにすでに決めてあったことだそうだが、三月十一日に東日本大震災が発生し、著者は津波とこの副題の「奇怪なもの」を引き付けて考えずにいられなかったようだ。「いくつかの章は、われわれの日常に突如として襲いかかった奇怪なものにある意味で照明を与えずにはいないように思われる」と記している。
 不意に出現した「奇怪なもの」によって、人間はその存在自体の意味を突きつけられつづけてきたのだなと本書を読みつつ「三・一一以後の世界」を改めてかみしめるばかりである。

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プロフィール

梶葉子

Author:梶葉子
読書のよろこびはなにものにもかえがたいものです。
私を実に実に遠くまで連れ去って
みえない世界を垣間見させ
そこに吹く風や漂う香りを感じさせてくれる
書物に感謝しつつ
ささやかな感想をしたためていきま

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